(きじやまじょう)
豊橋市畑ヶ田町
▲ 雉子山城址は近年の河川改修によってその大半が削られてしまった。この
浜田川は城址とされる部分のほぼ中間を流れているようだ。川の右側より左
側の方が高台となっている。かつて城があったことの唯一の名残りといえよう。
忘れられた要害城
雉子山城はその昔、梅田川とその支流の分岐点の高台にあって後に城濠を構えて要害の地域をなしていたといわれている(「渥美郡史」等)。 そして寛正年間(1460-66)に当地の地頭富田弾正が居城とし、後に畔田(くろだ)右門の領地となって同氏が居城したと伝えられている。分かっていることはこれだけである。 寛正年間といえば、渥美郡が一色氏の所領となっていた時期で、郡代として同族の一色七郎政照が田原に屋敷を構えて勢い盛んであった頃である。郡代一色七郎と地頭富田弾正の関係は分からない。 畔田氏は一色氏とともに渥美郡に土着したもので、太平洋岸の赤沢(畔田城)を居城としていたと思われる。それが応仁の乱(1467)後に渥美郡は戸田氏の支配するところとなり、一色七郎は隠居(一色屋敷)させられてしまった。ここで畔田氏は戸田氏の被官となって梅田川流域に所領を得たものであろう。草間城(豊橋市向草間町)や中瀬古館(同市野依町)、そしてここ雉子山城がその遺跡として伝えられているのである(この3城館を畔田氏が得た時期については今川義元の時代とする説が一般的なようでもある)。 その後、東へ勢力を伸ばそうとする戸田氏と牛久保から南下しようとする牧野氏が東海道の要衝吉田城をめぐって争奪戦を繰り返すこととなる。 永正十五年(1518)に吉田城主であった戸田宣成が今川氏の圧力に屈して退城、大崎城(豊橋市大崎町)に移った。再び吉田城主となった牧野氏は梅田川を戸田氏との境としたのではないだろうか。梅田川北側の草間城が、「牧野氏が今橋(吉田)に居城すると共に廃城となった」というのもこの時のことではないのか。 そうなると、ここ雉子山城は戸田氏最前線の一端を担う重要な城であったということになる。畔田右門という武士に関しては何も分からないが、野依郷の中瀬古館の畔田氏一族の者であった可能性が高いのではないかと思う。 |
▲ この付近一帯は雉山と呼ばれる高台になっている。 城域とされる場所は畑地と宅地になっていて遺構はない。 |
----備考---- |
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画像の撮影時期*2009/06 本文加筆訂正*2009/10 |