(むろじょう)
豊橋市牟呂公文町
▲ 牟呂城は発掘調査の結果約60m四方の方形単郭の掻揚げの
城であったようだ。現存遺構はこの祠のある土塁の一部のみである。
土豪牟呂兵庫の古城
東三河十七騎と呼ばれる今川氏に属する土豪たちのなかに室金平という武士がいた。時期は文亀・永正(1501-21)の頃である。 室金平は牟呂公文の地に邸を築造した(「牟呂吉田村誌」)と伝えられているから牟呂城の創築者ということになる。しかしそれ以外の出自や事績については伝えられていない。ただ、推察できることは十七騎の土豪たちとともに今川氏の命を受けて吉田城の警備に就いたであろうということくらいであろうか。 金平の後を継いだのは兵庫頭政茂である。 兵庫頭は鵜殿姓も名乗っていたようで、不相城(蒲郡市)の鵜殿氏と関係があったようだ。一般的には牟呂城は不相城の鵜殿氏が三河湾の覇権強化のために築いた支城であると言われている。しかし真偽の程は分からない。ただ言える事は両者ともに今川氏に忠実であったということであろう。 享禄二年(1529)、松平清康(徳川家康の祖父)の東三河進攻によって多くの土豪たちが今川方から松平方に鞍替えした。清康に敵対したのは吉田城の牧野氏と宇利城の熊谷氏であった。両者ともに驍将清康には敵わず、壮絶な討死を遂げている。 ところが、兵庫頭もこの時に清康に攻められて自害したというのである。今川への忠義を貫き、変節を良としなかったのであろう。 しかし、兵庫頭の討死の時期には諸説あってよく分からないのである。大永六年(1526)とするものがあれば永禄五年(1562)とするものもある。永禄五年説では家康が鵜殿氏の本城である上郷城を攻め落した際に不相城も落城しており、この時に兵庫頭も討死したというのである。いずれにしても、よく分からないことばかりだ。 小土豪なるがゆえに滅びてしまえば、その歴史も事績も霧散してしまうのであろうか。 今、城址の周辺は宅地化が進み、わずかに土塁の一部が残されているだけである。そこには祠と「鵜殿兵庫之城」と刻まれた小さな石碑が建っている。その小さな風景からは、大勢に従えずに滅び去った小土豪の悲哀が感じられてならない。 |
▲ この階段を上がるとかつての土塁上に出る。鳥居が建ち、祠が祀られている。このわずかに残る土塁跡は、小土豪がかつてここで戦国の世を生きたという証しである。その痕跡が数百年の後まで残り続けてきたのも地域の人々の信仰のおかげといえるかもしれない。 | ▲ 鳥居の傍に小さな石碑が建てられており、「鵜殿兵庫之城」と刻まれている。 |
▲ 道路左側のコンクリート壁が鳥居のある土塁上への入口であるが、道路右側(南)にも昭和61・63年の発掘調査時には土塁遺構が残存していた。現在はこのように平坦地となり何もない。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2010年5月30日 |
主要参考資料 | 「牟呂吉田村誌」他 |