下り地城
(おりじじょう)

新城市野田字野田市場


▲下り地城は富永氏の本拠である野田館の北東部に設けられた城で、家臣が
その城主をつとめた。戦国期に至り、富永氏の衰退によって城も廃されたとされる。
(写真・下り地城の土塁。)

野田館の守護城

 建武二年(1335)、足利尊氏の命により三河国設楽郡と宝飯郡の一部を含む広大な所領を与えられた富永直郷が先住の千秋氏の居館であった野田館に入った。

 下り地城はこのときに野田館を守護する城のひとつとして築かれ、家臣を配したとされている。野田館の北東約1.5kmの位置にある。

 戦国期に入ると設楽郡では菅沼氏や奥平氏といった国人が勢力を拡大して富永氏の領分を侵し、明応(1492-1501)の頃には野田館周辺の四ヵ村にまで領地が減少してしまった。この頃、下り地城には富永氏の家臣富永半五郎勝光が住していたという。

 当時の野田館の当主は千若丸で初代直郷の八代目であった。永正二年(1505)、この富永家の若君は乱心自害してしまう。事の真相は分からないが、困ったのは残された家臣らである。富永家を致仕して自立する者、他家に仕官する者が相次いだことは言うまでもない。下り地城の富永半五郎も富永家を退転して西三河の吉良氏の臣となり、城を退去したとされている。

 「千郷村史」には吉良義明の臣となって立ち退いたとある。吉良義明とは永禄六年(1563)の三河一向一揆の際に徳川家康に反して東条城に籠城した吉良義昭のことであろうか。たしかにこの戦いでは義昭の家臣として富永伴五郎忠元という猛将が登場するが、下り地城を退転した半五郎勝光とは時代が合わず、同一人物とは言い難いと思われる。

 さて、富永家の若君が乱心自害した後、富永家の重臣今泉四郎兵衛が主導して田峯城の菅沼定忠の三男定則を当主として迎えた。野田菅沼氏の始まりである。この時、下り地城には自害した千若丸の弟富永資舟が居住したとされる。資舟にも家中をまとめる器量はなかったのであろう。城は間もなく廃されたという。


▲北西側の入口。両側に土塁が残る。

▲郭内から見た土塁。

▲北面土塁の外側。

▲西面土塁の外側。道路はかつての堀跡である。

▲郭内の様子。現在は墓地(普通のお墓とは違う)となっており、踏み入るのに躊躇してしまう。

----備考----
訪問年月日 2018年12月2日
主要参考資料 「復刻 千郷村史」他

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