(ためじょう)
豊橋市多米東町
▲ 多米城跡とされる場所は宅地となり、城跡であったことの痕跡すら残されていない。この川は
城跡とされる地域を貫流する朝倉川である。左にわずかにカーブしているその辺りが城域と思われる。
早雲とともに生きる
多米城は城主の名をとって元益城ともいう。城主は多米権兵衛元益である。元益は後に北条早雲とともに伊豆、そして小田原攻めに参加、後北条氏草創の重臣のひとりに数えられている。 「多米郷土誌」所収の史料によれば「鷲尾ノ遠衡六代ノ孫鷲尾時助故アッテ三州八名郡多米邑ニ住す」とある。鷲尾遠衡は桓武平氏の末裔で、三河国吉良に住したと伝えられており、赤羽根城主(愛知県幡豆郡一色町)であったと言われている。時代は平安末期の頃で、それから鎌倉時代を経て五代時秀の時に鎌倉幕府は滅びた。時秀は建武二年(1335)に起きた北条時行らによる鎌倉奪回(中先代の乱)に参陣、足利勢との戦いで討死にしてしまった。この時秀の子が時助である。この当時まだ幼かった時助は家臣に抱えられて落ち延び、ここ多米邑に隠れ住むことになったという。 築城の時期は明らかではないが、先の経緯から考えると中先代の乱からしばらく後のことと思われる。この時助から数代を経て元益となる。元益の代で多米(多目)を名字とした。 城は方形単郭の平城で、築地(土塁)の高さや幅は一様ではなかったらしい。狭い所で三・四間(約5〜7m)、広い所で七・八間(約13〜14m)、面積二千余坪(約80m四方)と記されている。残念ながら現在では区画整理や河川改修事業などによって城跡は消滅、遺構を目にすることはできない。 多米権兵衛元益がどのような経緯で早雲こと伊勢新九郎盛時(氏茂)の家臣となったのか、興味深いところである。 先の史料には伊勢新九郎が元益を伯父伊勢貞職の養子にして将軍義政に仕官させたというように記されている。幕府申次衆であった新九郎が同じ平氏であることから元益に目をかけ、仕官を援助したということであろう。 文明八年(1476)、伊勢新九郎は幕府名代として今川家の内紛の調停に駿河へ下向している。多米城は三河と遠江の国境近くにあり、鎌倉街道の通過点にも位置していた。新九郎が駿河との往復の際に同じ平氏の末流である多米元益の城館に立ち寄ったであろうことも容易に察せられる。「武ヲ以テ家ヲ興ント欲シ」という元益の大志に感銘した新九郎が上洛を促し、仕官を後押ししたものではなかろうか。それから十一年後、新九郎は再び駿河へ向かうこととなる。 今度は武力で今川家のお家騒動を解決するための下向である。この時、新九郎は六人の勇士とともに駿河に向かった。大道寺太郎、荒木兵庫、山中才四郎、荒川又次郎、在竹兵庫そして多米権兵衛元益である。北条記等では新九郎以下この七人の侍たちが神水を酌み交わして仲違いすることなく一人が大名となれば他の六人はその家臣となろうと誓ったという話は有名だ。 元益が伊勢新九郎の家臣として行動するようになった後、多米城はどうなったのか。明応初年(1492)頃に船形山城の築城者として多米又三郎の名が伝えられている。今川氏の庇護下で元益の一族の者がその後も多米の地を守り続けていたと思われる。しかし二連木城主戸田宗光の野望によって船形山城は落とされ、多米又三郎も討死してしまった。 その後、多米城は歴史に登場することなく忘れ去られた。 一方の元益は新九郎こと早雲のもとで戦功を重ね、子の元興の代には武蔵青木城主となり、後北条氏七家老の一家に数えられて大いに繁栄した。 |
▲ 多米城のあった付近を北側の丘から望見。遠方の山並み には多米又三郎が築いたと言われる船形山城がある。 |
▲ 多米城の中心部付近。畑地、宅地化されて土塁の痕跡すら見られない。 | ▲ 多米城の中心部付近を朝倉川越しに見る。 |
▲ 南側から展望した多米の水田と町並み。多米の土地は弓張山地の麓にあり、古くより米が多く取れたとの伝承がある。 |
----備考---- | |
---|---|
訪問年月日 | 2010年7月17日 |
主要参考資料 | 「多米郷土誌」他 |