(ふながたやまじょう)
豊橋市雲谷町
▲ 船形山城の遠景。左側の山頂に鉄塔が見えるる。そこが城址である。城址から右側の
山頂までなだらかに稜線が弧を描いている。これが船底の形に見えることから船形山と呼ばれる。
戸田宗光、
野望の城
文明八年(1476)二月、遠江の塩買坂(静岡県菊川市)で駿河国守護の今川義忠が土豪(横地氏、勝間田氏)の残党の襲撃によって没した。 応仁の乱の混乱に乗じて東三河で頭角をあらわした戸田宗光は東軍今川義忠の庇護下で渥美郡に進出、旧主一色氏の所領を得て勢い盛んであった。塩買坂で義忠が没した後、今川家は後継者問題で以後十年に渡る停滞期を迎えることになる。必然的にその威令は三河の地にまで届かなくなった。今川の後ろ盾をなくした宗光は独力で領地拡大を進め続けることになった。 文明十二年(1480)頃、田原城を築いて本城とした宗光は明応二年(1493)に二連木城(豊橋市二連木町)を築いて自らの駒を進めた。 この頃、今川家の内紛も収まりをみせ、氏親が七代目当主となって遠江中部にまでその支配を広めていた。その支配を広めるための軍事的統率者が伊勢新九郎盛時(長氏)、後の北条早雲であった。 一方、二連木城の戸田宗光の目は国境を越えた遠江に向いていた。このことは将来今川氏との対決に至ることを意味するのであるが、宗光に勝算があったのであろうか。 ともかく、宗光の遠江進出の野望は実行に移された。「渥美町史」には引馬野の諏訪信濃守を味方にし、多米又三郎の守る舟形山の砦を攻撃し奪取した、とある。宗光が味方とした諏訪信濃守は遠江浪人と言われているだけで詳細は分からない。宗光が見込んで大将分に取り立てたのであるから機略に通じた侍であったのかも知れない。 この船形山の戦のあったのが明応六年(1497)のことであった。船形山城は明応初年(1492)頃に今川方の臣多米又三郎(多米城/豊橋市多米東町)が築いたとされるものである。多米又三郎はこの戦で討死した。 三遠国境の船形山城を手中にした戸田宗光は勢いに乗じて遠江に進攻、浜名湖西岸から北岸(三ケ日町)にかけてその所領を拡大した。 こうした宗光の侵略を今川氏が看過放置するはずがなかった。氏親は掛川城の朝比奈氏に宗光討伐を命じた。 明応八年(1499)、船形山城は朝比奈泰以に率いられた今川勢の猛攻を受けて落城した。諏訪信濃守と戸田宗光はこの戦で討死したとされている。 宗光の野望も露と消え、田原城の戸田氏は今川氏に恭順することとなった。 その後も船形山城の名が時折り登場する。永禄七年(1564)から永禄十一年(1568)にかけて徳川方の小笠原安元、小笠原広重、信元父子がこの国境の城を守ったと記されている。 |
▲ 船形山城の主郭跡に建てられた城址標柱。 |
▲ 真言の古寺、普門寺本堂前が城址への登山口となる。 | ▲ 尾根道は主郭直前で急坂となる。かつての堀切跡である。 |
▲ 主郭東端には鉄塔が建っている。鉄塔の東側と北側は一段高くなっているが、かつての土塁跡と思われ、鉄塔建設時に削り取られたものとみられる。 |
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画像の撮影時期*2009/03 本文一部訂正*2009/10 |