赤羽根城
(あかばねじょう)

町指定史跡

幡豆郡一色町赤羽


▲ 赤羽根城の城跡は現在、赤羽別院親宣寺と一色高校の敷地となって
遺構は残されていない。城は居館を構えた館城であったと見られている。

戦国、高橋氏の古城

 赤羽根城の最初の城主は伊勢平氏鷲尾右衛門尉遠衡とされ、平安末期のこととされている。

 その後、五代目時秀は中先代の乱(1335)で北条方に参陣して足利方との戦いで討死、幼子の時助は家臣に抱えられて赤羽根を落去した。この時助は東三河多米邑に隠れ住み、その裔は多米氏(多米城)を称した。

 鷲尾氏の去った赤羽根には足利方で倒幕に活躍した西条(西尾城)吉良満義の子有義が城主となり、一色氏を名乗った。有義の没年が永徳三年(1383)というから南北朝時代のことである。

 その後は、城址説明板によれば応永二十一年(1414)に高橋四郎高宗が城主となったとある。

 この高橋四郎は三河挙母高橋の住人であったといわれ、また足助氏の一族であったともされており、南朝の忠臣であったという。後南朝の尹良親王や良王に仕えて活躍したらしい。そして吉良氏に仕えることとなり、赤羽根城主となったという。前城主一色氏の後、空城になっていたのであろうか。

 永正十一年(1514)頃、高橋氏は大河内貞綱や巨海新左衛門らとともに遠江引馬城に出兵して今川氏と戦い、討死するなどしている。

 その後も高橋氏は吉良氏に仕え続け、運命の永禄四年(1561)を迎える。

 この当時の吉良氏当主は義昭で、今川氏に属していた。ところが前年の桶狭間合戦で今川義元が織田信長に討取られてしまい、岡崎城に自立した松平元康(徳川家康)勢によって攻められて降伏してしまった。

 吉良氏の城であった西条城(西尾城)に入ったのは松平家臣酒井正親であった。酒井勢は幡豆郡の平定を進め、ここ赤羽根城にも押し寄せた。

 時の赤羽根城主は高橋出羽守信政であり、子の弾正少弼政信とともに籠城して防戦した。しかし、酒井勢には敵わず、ついに落城となった。

 この政信は永禄九年(1566)没といわれるから、落城時に脱出できたものと思われる。政信の子は長じて出家、荒廃した城址の南東隅に瑞雲庵を建てたという。

▲ 赤羽別院親宣寺の山門前に建てられた城址碑。
 ▲ 城跡に建つ赤羽別院親宣寺。
▲ 赤羽別院に隣接する一色高校。ここも城域とされる。

▲ 城址碑の傍に立てられた説明板。

----備考----
訪問年月日 2010年12月19日
主要参考資料 一色町公式HP、他

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