浅井西城
(あざいにしじょう)

市指定史跡(土豪屋敷跡土塁)

西尾市西浅井町宮下


▲浅井西城は土豪黒柳氏の屋敷であったが戦国の一時期に松平康孝の居城となった。
(写真・屋敷跡の土塁)

十郎三郎康孝の居城

西尾市の矢作川と矢作古川の分岐の東側が西浅井町となっている。この町の字宮下に市指定史跡となっている「土豪屋敷跡土塁」が残っている。これが浅井西城と呼ばれる城館跡である。土塁が高さ約6mで屋敷跡を囲んでおり、鎌倉期以来その規模、形態ともに完存の状態とされる貴重なものである。ただ土塁の内側は個人宅となっているので、外側から見学するほかない。

大永三年(1523)、松平信忠(徳川家康の曾祖父)が嫡男清康へ家督を譲る際に次男信孝に合歓木(岡崎市/ねむのき)、三男康孝に三木(同/みつぎ)の郷を与えた。これにより十郎三郎康孝は浅井西城に入ったとされる。「三河国二葉松」には三木村古城及び浅井村古城とあり、三木・浅井両村が所領であったのであろう。

十郎三郎康孝が居所とした浅井西城は鎌倉以来の土豪黒柳右京亮政家の屋敷であった。史跡名称の「土豪屋敷跡」はここからきているものと思われる。ともかく黒柳右京亮は十郎三郎康孝を迎えて屋敷を譲り、屋敷前に住んだらしい。

天文四年(1535)、松平清康暗殺による守山崩れによる松平方の混乱に乗じて尾張の織田信秀が三千を率いて大樹寺(岡崎市鴫田町)に布陣した。この時、清康の子広忠はわずか十歳であったため清康の弟である信孝と康孝が八百の兵を率いて井田野に戦い、見事撃退に成功している。

天文十一年(1542)康孝、病没。享年は不明だが、おそらく三十代ではなかったかと思われる。康孝没後、兄の信孝が康孝の遺領を横領して三木城を居城としたとされる。

浅井西城は無主となり、再び黒柳氏が戻ったのであろうか。現在に至るまで黒柳氏の屋敷地となっている。

現在、土塁の外側の一部には水堀の一部が残存しているとされるが、訪問時には無くなっていた。屋敷跡の北隣の字古城の丘陵地八幡社の辺りは詰城のあった所といわれる。


▲土塁前の「土豪屋敷堀濠跡」の碑。

▲かつては水堀が一部残存していたが現在では無くなっている。

▲土塁上に立つ説明板。

▲高さ約6mの土塁が巡っている。

▲土塁は屋敷跡を方形に近い形で囲んでいる。

▲松平康孝が大永三年(1523)に開基した浄土宗源空院の山門。

▲境内の松平氏略系図。

▲本堂前に建つ「當山開基松平十郎三郎康孝公菩提寺」の石標。

----備考---- 
訪問年月日 2026年1月27日
 主要参考資料 「愛知県中世城館跡調査報告」他

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