■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2026 管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。 |
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| 2月19日(木)晴/寺津城、巨海城、徳永城、長縄城、国森城、米津城、中根城(西尾市) またまた西尾市へ。 寺津城は大河内氏歴代の城である。大河内氏は鎌倉以来の名族であり、吉良家に仕えて活躍した。その関係もあって三河一向一揆の際には吉良義昭に従って一揆方に付き、家康に背いた。その後、家康に許されて出仕、大河内正綱が家康に命じられて長澤松平家へ養子となり、大河内松平となった。次代の信綱は「知恵伊豆」と呼ばれて老中になっている。 城跡は瑞松寺一帯とされ、境内に土塁跡が残っている。近くの金剛院には大河内氏の墓塔があり、寺津八幡社には大河内氏発跡地の碑が建っている。 巨海城も大河内氏の城のひとつで、大河内貞綱の弟道綱が巨海氏を名乗って築いた城とされる。貞綱、道綱兄弟は吉良氏の代官として遠江国引馬城へ出張して今川氏対立したが、今川氏親に攻められて自害したという。 城跡には寺津小学校と中学校が建ち並んでおり、遺構はない。ただ、地形的にわずかな台地状となっており、城跡であることを伝えている。近くの八釼神社は永正五年(1508)に巨海秀国が本殿を再建したことが伝えられている。 徳永城は応永(1394-1428)の頃に徳永小七郎義雄がこの辺りを領有して城を築いたといわれている。それ以外のことはよく分からないようだ。 城跡は宅地化が進み、遺構はない。立清寺の境内に土塁の一部が残存していたが、現在ではそれも宅地化によって消滅してしまっている。 長縄城は大河内氏一族の城である。松平清康が守山崩れで急死した際に長縄城の大河内小見(しょうけん)基高がその遺骸を持ち帰り観音寺に仮埋葬したことが知られている。なお、基高は永禄四年(1561)の藤波畷の戦いで戦死したと言われる。 城跡は水田、宅地となり無いとされている。観音寺の北にある稲荷神社が城跡とされている。 国森城は矢田の地に居館を構えた松平張忠の城跡とみられ、次代の康忠は天文六年(1537)に私財を投じて佳岩寺を再建し、菩提寺とした。天文九年(1540)の安城城をめぐる戦いで討死した。矢田地蔵塚は康忠の墓とされている。 城跡とされるところには市の施設が建てられており、遺構は見られない。ただ段丘状の地形がかつて城のあったことを推測できるのみである。また、康忠の墓とされる地蔵塚は公園化されて子供たちの遊び場になっている。 米津城に関してはおもしろい伝承が残されている。知多半島の大野から米津道寿が五隻の軍船と兵300人を率いて当地を攻め取り、土地を拓いて米津村としたというのである。米津氏は松平清康に仕えて代々松平宗家の家臣として活躍した。 城跡は宅地化と圃場整備によって遺構はない。ただ、字蔵屋敷と呼ばれる一帯が段丘となっており城のあったことを伝えている。 中根城は詳細の分からない城跡なのだが、家康の老臣鳥居伊賀守忠吉が築いた城との伝承がある。鳥居忠吉は家康が今川の人質時代に武具や糧米を密かに貯えて主君の帰りを待っていたことでしられている。矢作川の水運を利用して蓄財したとも言われており、その際の中継拠点であったのかも知れない。 城跡は圃場整備によって遺構はない。ただ削り残った段丘状の高まりが城のあったことを物語っている。 |
![]() ↑寺津城 ![]() ↑巨海城 ![]() ↑徳永城 ![]() ↑長縄城 ![]() ↑国森城 ![]() ↑米津城 ![]() ↑中根城 |
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| 1月27日(火)曇後晴/上永良城、浅井西城、小島城、荒川城、江原城、鵜ヶ池城(西尾市) 今回も西尾市方面である。 城跡めぐりの前に前回の鎧ヶ淵古戦場と藤波畷古戦場の関連史跡に立ち寄った。鎧ヶ淵(善明堤)の戦いで戦死した松平元康方の松平好景と板倉好重の戦死地である。古戦場跡からはかなり離れている。松平好景戦死地は鎧ヶ淵から2.6km、板倉好重は5kmも離れている。吉良方による追撃が徹底していたことをこの距離が示している。 上永良城は加藤嘉明の生誕地であり、現在では神明社となって城の遺構はない。加藤嘉明は豊臣秀吉の家臣となり、賤ヶ岳の戦いで七本槍のひとりに数えられ、最終的には会津40万石の大々名になった武将である。境内には立派な加藤嘉明の生誕地碑が建てられている。ちなみに加藤(岸)氏は代々松平氏に仕えていたが嘉明の父が三河一向一揆の際に一揆方に付いたために戦後父子ともども浪々の身となったという。秀吉が長浜城主時代に嘉明が召し抱えられ、その後累進を重ねて大名に出世した。 浅井西城は松平清康の弟十郎三郎康孝の居城と伝えられている。はじめ黒柳氏の居所であったが康孝に明け渡したのだという。現在では先の黒柳氏の居住地となっている。康孝の後は兄の信孝が領したらしいが、信孝は広忠らによって討たれたために一時的なものであったようだ。 小島城は荒川氏の家臣鷹部屋鉾之助の城であったが松平清康に攻められて逃れたという。松平広忠のとき、室城の出城として改修された。永禄四年(1561)には伊奈忠基の居城となり、忠家、忠次と続き、西方寺を創建した。城跡自体は工場地帯となって消滅してしまっているが城山稲荷が西方寺に移されている。 荒川城は荒川甲斐守義広の居城で、永禄四年(1561)には松平元康(徳川家康)に属して戦功を挙げた。二年後の三河一向一揆の際には一揆方に付いて家康と戦って敗れ、河内国へ逃れたという。 江原城は文明年間(1469-87)に小笠原氏の一族が当地に住んで江原氏を名乗ったのにはじまる。四代丹波守忠次は桶狭間合戦で今川方として討死した。五代忠盛は三河一向一揆の際には一揆方に付いたが後に許され、家康に仕えた。江原氏の菩提所妙喜寺には一族の墓が残る。 鵜ヶ池城は吉良家重臣の富永忠安が永禄七年(1564)に移住した所である。忠安の息子忠元は東条城主吉良義昭の頼みの重臣であったが永禄四年(1561)の藤波畷の戦いで壮烈な討死を遂げた。家康は忠元の戦死を悼み、忠安に当地を与えたものと言われている。遺構はないとされるが、「史跡」と彫られた石標が建てられており、かつてここに城のあったことを伝えている。 |
![]() ↑上永良城 ![]() ↑浅井西城 ![]() ↑小島城 ![]() ↑荒川城 ![]() ↑江原城 ![]() ↑鵜ヶ池城 |
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| 1月8日(木)晴/室城、鎧ヶ淵古戦場、岡山城、岡山陣屋、椿屋敷、藤波畷古戦場、東条城(西尾市) 西尾市吉良町方面の史跡めぐりである。 室城は永正年間(1504〜)に東条城へ至る街道の要所の城として東条吉良氏の家臣富永正安が築いたとされる。天文五年(1536)には正安の次代忠安が流浪中の松平広忠を室城に迎えている。忠安の子伴五郎忠元は永禄四年(1561)の四月に鎧ヶ淵の戦いで松平好景らの軍勢を討取って勝利している。 城跡の主郭部分は墓地となっており、土塁の高まりが部分的に見られる。また、大きなくぼみが残されており井戸跡とされている。城跡の東側に神明神社が鎮座しているが、ここは倉屋敷と言われて城の一部をなしていた。 富永伴五郎忠元が松平勢に勝利したという鎧ヶ淵の古戦場跡として県道42号の善明橋の南側に石標が建てられている。ここには江戸期に吉良上野介義央(よしひさ)が田畑を水害から守るために築いた堤防が残されており、「黄金堤」と呼ばれて史跡として整備されている。その駐車場の隅に古戦場跡の石標が建っている。 岡山城は東条城の西北1.5kmほどの山稜端にある。室町初期には岡山氏塁代の居城であったようだが、戦国期になると室城の富永氏の管理下にあったという。城跡は自然地形で遺構はなさそうなので遠景撮影のみですませた。 岡山城跡から岡山陣屋跡へ向う途中に華蔵寺がある。ここには今川氏によって吉良の地を追われた吉良義安以降の再興吉良氏歴代の墓塔が残されている。義安・義定・義弥・義冬・義央・義周である。他に義安夫人や吉良公家臣供養塔などが並んでいる。 岡山陣屋跡は天正七年(1579)に家康と対面した義定が後に出仕して屋敷を構えた所とされる。義定の子義弥(よしみつ)は関ヶ原の戦いに父とともに参陣して後に三千石を拝領、高家となり、屋敷地を陣屋とした。次の義冬のときに千石が加増され、都合四千二百石を支配することになった。 現在の陣屋跡には門と吉良義央公の騎馬像が建てられて小さな史跡として整備されている。 岡山陣屋跡から南東約500mに椿屋敷跡という史跡がある。ここは今川氏によって駿河薮田の地に幽閉され死去した吉良義安の妻俊継尼が遺児義定を連れて吉良の地に戻り住んだ所とされている。ここで家康より食禄二百石をいただき、義定が出仕したことで吉良家再興となったのである。 椿屋敷跡のすぐ西200mほどに藤波畷古戦場の石標が建てられている。鎧ヶ淵の戦いの後、態勢を整えた松平元康(家康)が東条城攻めに乗り出し、城を打って出た富永伴五郎らとの激戦の地である。 石標の南400mに伴五郎地蔵と呼ばれる御堂がある。藤波畷の戦いで獅子奮迅の活躍を見せた富永伴五郎であったがついに力尽きてここで戦死してしまったという。東条城のすぐ近くである。城からこの戦いを見ていた城主の吉良義昭は伴五郎の討死を知ると、降伏して元康に降った。 最期にその東条城へ寄った。16年ぶりの再訪である。当時は本丸虎口に櫓門や物見櫓が復元されていたが、老朽化のために取り壊されて現在はなくなっていた。 |
![]() ↑室城 土塁 ![]() ↑鎧ヶ淵古戦場 ![]() ↑岡山城 ![]() ↑岡山陣屋 ![]() ↑椿屋敷 ![]() ↑藤波畷古戦場 ![]() ↑東条城 |
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| 1月4日(日)晴/兜塚、京見塚(磐田市) さあ、新年だ。昨年は遠江を重点的に廻った。今年は三河を主に廻る予定である。とはいえ、本日は遠江の廻り残した兜塚と京見塚でスタートである。 兜塚は現在磐田市のスポーツ関連の体育館やグランドなどが集中的に整備されている公園内にある古墳跡である。 名前の由来は戦国期に徳川と武田がこの辺で戦った際に、徳川四天王のひとり本多平八郎忠勝がこの塚の上で戦況を見聞し、兜を木に掛けたことからきているらしい。一言坂の戦いはこの直後のことで、本多平八郎は蜻蛉切の大槍を振るって大活躍、主君家康を武田勢の猛追から無事逃がしたことは有名なはなしである。 この兜塚の近くに京見塚という古墳が残されている。 平安遷都を行った桓武天皇の時代のはなしである。天皇の皇子の戒成王(かいじょうおう)は若くして不治の病にかかり、わずかな供と共に都を出て遠江に至り、ここに屋形を建てて住んだという。しかし、皇子は都が懐かしく、いつもこの墳丘の上に上って西の都の方を眺めていたという。皇子はここに住んで十数年でこの世を去ってしまった。いつしか人々はこの墳丘を「京見塚」と呼ぶようになったそうだ。 |
![]() ↑兜塚 ![]() ↑京見塚 |
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