徳永城
(とくながじょう)

西尾市徳永町西側


▲徳永城は応永(1394-1428)の初期に徳永小七郎義雄によって
築かれたとされるが、それ以外のことはよく分からない。
(写真・城跡に隣接する立清寺)

消えゆく城跡

西尾市徳永町の字西側に立清寺という浄土宗の寺がある。この寺に隣接して築かれていたのが徳永城である。「三河国二葉松」には「徳永法印同治左衛門、異左馬助寿昌」の名が記されているが、具体的なことは分からない。

「寺津村誌」には「徳永城趾は大字徳永字西側立清寺の東北にあり。応永の頃(五百二十年前)徳永小七郎義雄なるもの此地を領し此処に城を築きしと云ふ」とある。城の規模は東西約四十間、南北約六十間とあり、現存土塁は長さ五間(約9m)、高さ一丈(約3m)ともある。この土塁は近年まで立清寺の墓地東側にあったものであろう。

徳永城主であった徳永小七郎義雄についてはよく分からないし、どのような経緯で当地を領したのかも不明である。

城跡の南東約2kmの上道目記町に浄土宗の寺院である不退院がある。この不退院の由緒書によれば徳永小七郎義雄が応永八年(1401)に一宇を草創したのが始まりとあり、応永十八年(1411)に逝去したと記されている。とすると、応永八年(1401)以前に徳永城が存在していたことになろうか。

城跡に隣接する立清寺は永禄九年(1566)の創立で、旧城主徳永小七郎義雄の位牌所とのことである。

「西尾の人物誌」では「徳永氏はおそらく西条吉良氏の在地系の被官であったことを推定させる」としている。

現在、寺の北側墓地の東側に土塁の一部が残存していたが近年の宅地化の波には逆らえず、消滅してしまっている。


▲立清寺墓地の東側(右側)に土塁が残存していた。

▲墓地の東側(左)に黄点線のように土塁があったが、消滅してしまっている。

----備考---- 
訪問年月日 2026年2月19日
 主要参考資料 「西尾の人物誌」
「寺津村誌」他

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