
(こみじょう)
西尾市巨海町若宮西

▲巨海城は大河内氏一族巨海氏の居城跡とされ、
遠江代官となった巨海新左衛門が知られている。
(写真・城跡の寺津小・中学校の東側段丘状地形)
遠江代官巨海新左衛門
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西尾市巨海町の寺津小・中学校のある台地東端部が巨海(こみ)城跡とされている。 巨海城の城主巨海氏は三河大河内氏の始祖顕綱の兄弟兼時が額田郡大河内(岡崎市大平町大河内)に移住して貝吹村(西尾市貝吹町)を開発し、子の伊兼(これかね)の時に大河内を名乗った。伊武-兼氏を経て兼春の時に分かれて巨海村に住み、戦国期に巨海新左衛門が出たという(「西尾市史」より)。いずれにせよ、顕綱の傍系であり、大河内氏の一族であることに変わりはない。 巨海氏の中で具体的な事跡が伝えられているのは巨海新左衛門道綱である。新左衛門は寺津城主大河内貞綱の弟とされ、巨海氏の養子となったと言われる。大河内氏は代々吉良氏の被官であったことから遠江国浜松荘の吉良領の代官として引馬城に貞綱が赴任しており、新左衛門は河匂(かわわ/浜松市河和町)荘と掛川荘(掛川市)の請所(年貢の納入を請け負う)を勤めていたとされる。この時巨海新左衛門は掛川に「よき城を構え(「宗長手記」)」たといわれる。 文明六年(1474)、巨海新左衛門は守護代狩野宮内少輔と共謀して年貢の納入を怠ったため幕府は狩野の城(見付端城か)を今川義忠に命じて攻めさせた。結果、狩野宮内少輔は自害、巨海新左衛門は掛川の城から退去した。「西尾市史」では上記の狩野の乱を寛正六年(1465)のこととし、「このあと掛川城には朝比奈泰煕(やすひろ)がはいっている」としている。掛川城(掛川古城)は今川家臣の朝比奈泰煕によって築城されたとされるが、その前に巨海新左衛門が「よき城」を構えていたことになろうか。 永正九年(1512)以降、遠江における守護斯波氏と今川氏の抗争は激しくなり、大河内貞綱は引馬城の争奪を繰り返し、永正十二年(1515)には尾張、三河の兵を集めて引馬城に楯籠った。翌年、今川氏親による攻城戦で落城した。大河内貞綱と巨海新左衛門は共に自害して果てた。 その後の巨海氏のことはよく分からないが徳川家臣鳥居氏の家臣の中に巨海氏の名があるらしい。 |
![]() ▲寺津中学校の校門。 |
![]() ▲寺津小・中学校の南西近くの八釼神社。永正五年(1508)に巨海勘解由尉秀国が本殿を再建したという。秀国と新左衛門の関係は分からない。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2026年2月19日 |
| 主要参考資料 | 「西尾の人物誌」 |
| ↑ | 「西尾市史」他 |