
(ふじなみなわてこせんじょう)
西尾市吉良町瀬戸八丁目

▲藤波畷古戦場は永禄四年(1561)に松平元康が
東条城の吉良義昭を降伏に追い込んだ戦場である。
(写真・古戦場跡の史跡碑)
富永伴五郎の討死
|
吉良町の東条城本丸跡から西北約400mの県道沿いに「藤波畷古戦場」の史跡碑が建っている。そこは東条城の城下大手口から出てすぐの所である。 永禄四年(1561)四月、東条城主吉良義昭(よしあきら)は善明堤の戦い(鎧ヶ淵古戦場)で敵対する松平元康(徳川家康)の家臣深溝城主松平好景とその一党を討取って凱歌をあげた。 しかし、合戦後の吉良義昭の今川方という立場は好転するどころか不利な状況が続いた。吉良一族で今川方であった八ツ面城主の荒川義広が松平元康方へ寝返り、元康家臣酒井正親を八ツ面城に迎え入れた。さらに西条城(西尾城の前身)の牧野貞成を追い出して酒井正親が西条城に入った。元康は荒川義広の功績を認めて異母妹の市場姫を正室として嫁がせている。 荒川義広を味方に付け、さらに西条城まで手に入れた元康は東条城攻めのための砦を構築した。小牧砦(吉良町小牧・後の小牧陣屋)に本多広孝、津平砦(吉良町津平)に松井忠次、糟塚砦(平原町城山)に小笠原長?(ながこれ)を守将として配した。 九月十三日、松平元康は小牧砦にはいり、そこを本陣として各隊に東条城目がけての出陣を下知した。元康麾下の軍勢七百余騎は東条城の大手口前の藤波畷に布陣して一挙に攻め込む態勢を整えた。 一方の東条城内には富永伴五郎忠元(室城主)や大河内金兵衛秀綱(寺津城主)らの吉良家家臣勢、牛久保城主牧野貞成の援軍勢が集結していたが兵数においては明らかに劣勢であったようだ。豪勇無双、吉良義昭の信任厚い富永伴五郎忠元は主君義昭を逃れさせるために手勢を率いて藤波畷に打って出たという。同時に牧野家の郎党須瀬宮内も打って出た。須瀬宮内は酒井正親隊に突っ込んだがたちまち討取られてしまった。 大手口より突出した富永伴五郎らに松平方の矢が降り注いだ。とくに弓の名手として知られる安倍忠政の矢は富永隊の兵らを次々と射殺していた。富永伴五郎は意を決して敵陣に突っ込んだ。鳥井平六を討取りそして大久保太郎八と組んで落馬、傷を負ってしまった。あやうく味方に助けられ、後退しようとしたところで本多広孝の馬上からの槍で突かれ、広孝の郎党本多甚四郎に首を渡してしまった。享年二十五歳の若武者であった。 富永伴五郎を討たれた東条勢は敗走、吉良義昭は完全に孤立してしまった。戦場の藤波畷には松平方が棹を結い渡して討取った首級七十八が掛け並べられたという。意気消沈した義昭は家臣の大河内金兵衛秀綱を降伏の使者として松井忠次(波城主)の陣へ派遣した。 降伏した吉良義昭の身は岡崎に連行されたが、翌年には許されて東条城近くの岡山城に居住したという。松平元康は富永伴五郎を討取った本多広孝に富永の居城室城を与えた。 江戸時代、当地の村民が富永伴五郎忠元を憐れんで討死の地に地蔵尊を祀った。現在では地蔵堂が建てられ「伴五郎(ばんごろう)地蔵」と呼ばれている。そして富永一族の墓は大通院(吉良町寺嶋)に残されている。 |
![]() ▲古戦場碑。 |
![]() ▲富永伴五郎忠元討死の地に建つ史跡碑。 |
![]() ▲富永伴五郎討死の地から見た東条城。 |
![]() ▲伴五郎地蔵の地蔵堂。 |
![]() ▲地蔵堂の裏にもいくつもの地蔵や石塔が並べられている。 |
![]() ▲伴五郎地蔵の説明板。 |
![]() ▲富永家代々の墓所がある大通院。 |
![]() ▲大通院縁起。 |
![]() ▲富永家代々の墓と伴五郎忠元の墓。 |
![]() ▲説明板。 |
| ----備考---- | |
|---|---|
| 訪問年月日 | 2026年1月8日 |
| 主要参考資料 | 「吉良の人物史」他 |