深溝城
(ふこうずじょう)

額田郡幸田町


▲ 深溝城址には城址碑が建つのみで、付近は宅地、
工場用地となって確かな遺構は見られない。

誠忠の系譜、
       深溝松平の古城

 深溝城は深溝松平氏の居城であったことで知られるが、城自体はそれ以前から存在した。当初の城主は大場氏である。

 大場氏は鎌倉幕府の御家人大庭氏の流れといわれる。築城の時期は鎌倉期もしくは室町初期の頃と言われているが詳しいことは分からない。

 大場氏の通称は代々二郎左衛門であったようで、その名が史上に現れるのが寛正六年(1465)の額田郡一揆と呼ばれるものである。この一揆は額田郡を地盤とする丸山、高力、梁田といった土豪たちが井口(岡崎市井ノ口町)に砦を築き、東海道を往来する物資(年貢米など)を強奪したというもので、大場二郎左衛門もこれに加わっていたのである。

 この一揆鎮圧の幕命を受けて出動したのが松平信光と戸田宗光であった。深溝の大場氏はこの時に松平信光によって討取られたとされている。しかし、大場氏はその後も深溝に在り続け、特に松平氏に対してはその後も反抗的であったと思われる。

 大永三年(1523)、安城城の松平長親の命を受けて五井松平元心(もとむね/五井城)は深溝を襲って大場二郎左衛門を討ち平らげた。長親はその戦功を賞して深溝の地を元心に与えたが、元心は弟忠定の働きによって深溝城が落ち、大場氏を討つことができたのであるとして、その功を忠定に譲った。

 兄の計らいによって忠定は岩津から深溝に移り、深溝城を居城とした。深溝松平氏の誕生である。

 永禄四年(1561)、深溝二代好景は松平元康(徳川家康)のもとに参じ、東条城の吉良義昭攻めの際に善明堤の戦いで討死した。

 三代伊忠(これただ)も家康の先鋒となって掛川城攻めなどに活躍、天正三年(1575)の長篠合戦鳶ヶ巣山砦の奇襲戦にて討死した。

 四代家忠も家康とともに各地の戦いに活躍した。城普請にも手腕を発揮して横須賀城、牧野城(諏訪原城)、浜松城、長久保城、駿府城などの補修、普請を手掛けている。天正十八年(1590)、武蔵国忍城一万石の大名となる。慶長五年(1600)、関ヶ原の前哨戦となった伏見城の戦いで城を守って討死した。

 五代忠利は関ヶ原合戦後、深溝一万石を拝領して故地に戻った。

 歴代当主の多くが家康の采配下で壮烈な討死を遂げている。まさに誠忠の系譜と呼ぶに相応しい一族である。

 深溝藩を立藩した忠利は慶長十七年(1612)に吉田城三万石に移封となり、深溝を去った。

 慶長十九年(1614)、板倉重昭が深溝に一万五千石で陣屋を構えた。寛永十六年(1639)に重矩が二代藩主となったが、ほどなく三河中島に藩庁を移したために廃藩となった。この際に弟重直が五千石を分与されて深溝に陣屋を維持、そして明治に至った。

 ところで、深溝松平氏はその後、三河刈谷、丹波福知山(福知山城)、下野宇都宮、肥前島原へと移封を重ねて明治に至った。

 歴代藩主は亡くなると故地である深溝(本光寺)に葬られることになっていた。幾星霜を経ようとも先祖の労苦の刻まれた地を忘れることはなかったのである。

▲ 本光寺の西廟所は初代から四代の墓所となっている。右から
初代忠定公、二代好景公、三代伊忠公、四代家忠公のものである。
 ▲ 城跡に建てられた城址碑。
▲ 城址とされる所は工場の敷地となっている。

▲ 工場の東側には土塁跡を思わせるものがある。

▲ 瑞雲山本光寺の山門。当寺は深溝松平氏の菩提寺として大永三年(1523)に松平忠定公によって建立された。

▲ 本光寺東廟所。ここには深溝松平家六代から十九代に至る当主が葬られている。

▲ 本光寺境内図。深溝松平家の墓所は西廟所(本堂手前)と東廟所(本堂右側)の2ヶ所に分かれている。

----備考----
訪問年月日 2010年12月19日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「松平の族葉 十四松平」他

 トップページへ三河国史跡一覧へ