(すわばらじょう)
国指定史跡・続百名城
島田市菊川
▲ 諏訪原城の特色のひとつに丸馬出がある。この堀は3号堀と
名付けられた北丸馬出の前面の堀跡で、半円弧の様子がわかる。
美濃守、
工夫至極の城なり
永禄十一年(1568)十二月、武田信玄は今川氏の本拠地駿府へ軍を進めて徹底的に焼き払った。今川の当主氏真は逃亡して遠江掛川城へ逃げ込んだ。 時を同じくして三河の徳川家康は遠江へ進攻、今川氏真の籠る掛川城を攻囲した。 信玄は遠江における家康の動きを牽制するために秋山信友の部隊を信濃から天竜川沿いになんかさせ、北遠から中遠北部にかけて行動させている。掛川城の攻略は家康に花を持たせたが、遠江の支配を家康の為すがままにしておくつもりはなかった。 永禄十二年(1569)、信玄は東に北条氏との対峙を続けながらも西の家康にたいする対応もおろそかにはしていない。十一月に大井川を越えて進み、五砦を築くと伝えられている。 その五砦のひとつに金谷台(牧之原台地)諏訪ヶ原の砦があった。築城は馬場美濃守信房が担当して城主を兼ねたという。諏訪原城の前身となるものであった。 ところがこの諏訪ヶ原砦、翌年のことと思われるが、徳川方によって落とされている。攻めたのは今川旧臣で武田に従わずに徳川に付いた安倍大蔵定吉で、徳川家臣永井善左衛門安盛ら七、八十騎が協力してのことであったそうだ。安倍大蔵は安倍(駿河)の金堀りを呼び寄せ、外郭から二の丸まで掘り通し、夜になってから城内の建屋に放火して攻略したと伝えられている(「武徳編年集成」)。 元亀二年(1571)二月、武田信玄は二万余の軍勢を率いて大井川を渡り、遠江へ進攻した。この時、諏訪ヶ原砦を失っていたためかどうかは分からないが、海側の小山城から相良方面に軍を進めた。進む先には遠江の要衝高天神城があった。 信玄はこの高天神城を軽く攻めただけで北遠に抜け、甲府に帰っている。この時の目的は高天神城の縄張りと防備状況をつかむためであったようだ。 翌元亀三年、信玄は駿河路ではなく信濃から遠江に進攻、天竜川沿いに南下、三方原合戦で徳川家康を敗走させた。家康に鉄槌を下すということから見れば信濃路をとった信玄の戦略は正しかったと云えよう。駿河路から攻めれば掛川城と高天神城の攻略に足止めされたであろうからである。 周知のように信玄はこの翌年、元亀四年(1573)四月に三河を行軍中に没した。 この年改元して天正元年の秋、信玄の後を継いだ武田勝頼が遠江へ出陣、見付(磐田市)から掛川方面へと軍を進めた。そして諏訪ヶ原砦の跡に立った勝頼は馬場美濃守に再築城を命じたのであった。目的は高天神城攻略の足場とするためである。 再築諏訪原城の役目は重大であった。味方大軍の大井川渡河の安全を確保し、味方が高天神城方面に進出後はその補給基地としての役割を果たさなければならないのだ。尚且つ、簡単に敵手に落ちるようではその任は果たせない。馬場美濃守はおのれの英知のすべてを注ぎ込んで築城にあたった。「高天神記」に曰く、「…美濃守工夫至極の城取りなり」と。 諏訪原城は鳥瞰すると扇を開いた形になっている。要部分は台地東端に突出し、その両側背は急傾斜地となって敵の接近を阻んでいる。そして扇の先端部分は大きく弧を描き、見事な堀と土塁によって防御され、なおかつ丸馬出を設けて攻撃的な機能まで持たせてある。まさに武田流築城術の大成した城であったといえよう。 翌天正二年(1574)五月、武田勝頼は駿河から大井川を渡って高天神城を囲み、六月にはこれを落としてしまった。諏訪原城の存在が武田軍の行動を容易にしたことは云うまでもない。 天正三年(1575)五月、長篠合戦で武田軍は織田・徳川連合軍によって大敗した。勝頼は多くの家臣を失ってしまった。長篠で斃れた家臣のなかには馬場美濃守も含まれていた。この戦いを境に武田は坂道を転がり落ちるように衰退の一途をたどることになる。 反対に勢い付いたのは徳川である。武田が当分再起不能とみた家康は合戦の翌月には掛川城に入って諏訪原城の攻略に取り掛かったのである。 諏訪原城は今福丹波守顕倍を守将とし、諸賀下総守昌清、小泉隼人忠季らの部将以下五百騎であったという。はじめ城外で徳川軍を迎え撃っていたいたが、新手を繰り出して攻め寄せる敵を防ぎきれずにその後城内に引き籠もり、籠城戦となってしまった。 長篠の大敗直後でもあり、武田本軍の後詰の期待できない状況下で城兵はよく戦ったが、八月二十三日に徳川家康が日坂の久遠寺に進出して本陣を構えると、 「もはやこれまで」 と今福丹波以下城兵たちは夜陰にまぎれて城を捨て去ってしまった。城を脱した今福らは増水した大井川を渡ることが出来ずに南の小山城に入った。いかに名城といえども、その真価は所詮人によって決まるものである。 諏訪原城を攻略した家康は軍功のあった松平左近忠次と牧野右馬亮成定に城番を命じた。 この時、家康は両人に「康」の一字を与え、忠次を康親、成定を康成と名乗らせた。そして、周の武王が殷の紂王を牧野に破った故事を引いて松平康親を周防守とし、城名を牧野原城としたと云われている。また、牧野康成の名を残すために牧野原に改称したとも云われている。いずれにしても武田色を払拭しておきたかったのであろう。 諏訪原城の落城によって高天神城の補給は小山城から相良城を経由する海側の線に限定され、やがて家康による包囲網によってこの線も断たれてしまい、天正九年(1581)ついに落城してしまった。 天正十年(1582)、武田が滅び、遠江、駿河が家康の領国となると諏訪原城の役目も終わり、松平康親も三枚橋城(沼津市)へ移るなどして空城となった。 その後、掛川城の管理下に置かれたようであるが天正十七年(1589)頃に廃城となったようである。 江戸期には牧之原の開墾が進み、維新後は旧幕臣らが入植して茶の栽培が盛んとなり、現在も城跡の周辺には見事な茶園が広がっている。 |
▲ 北曲輪(二の丸)から本郭(本丸)へと続く土橋。 |
▲ 大手郭跡の茶畑の中に「武田方当城主・今福淨閑戦死墓塚」と刻まれた碑が建っている。ちなみに今福淨閑は今福丹波守の父である。 |
▲ 中曲輪(三の丸)の堀。 |
▲ 北曲輪(二の丸)。多くの兵員と大量の物資を集積するのに充分な広さがある。 |
▲ 本郭に入ると天主台地と呼ばれる小高くなったところがある。ここには二層の矢倉が建てられ、物見の兵が常駐していたという。 |
▲ カンカン井戸。本郭と中曲輪(三の丸)を隔てる堀底にある。 |
▲ 南丸馬出跡には諏訪神社がある。鳥居のそばの「諏訪原城跡」の城址碑。 |
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画像の撮影時期*2008/05 |