■ 城跡・史跡めぐり探訪記 2025

管理人ヨシ坊が訪ねた城跡・史跡の訪問記録です。

探訪記 2023探訪記 2024
探訪記 2021探訪記 2022
探訪記 2019探訪記 2020
探訪記 2017探訪記 2018
探訪記 2015探訪記 2016
探訪記 2013探訪記 2014
探訪記 2011探訪記 2012
探訪記 2009探訪記 2010


3月23日(日)晴/大鐘屋敷(牧之原市)、諏訪原城(島田市)

 四月下旬並みの暖かい一日であった。孫たちを含め七人、ワンボックスで出掛けた。東名牧之原ICから南へ向い相良町へ出て、海沿いに東へ行くと大鐘屋敷である。六月頃にはあじさいが咲き誇り、観光客で賑わうらしい。

 戦国期、柴田勝豊の家臣大鐘籐八郎貞綱は越前丸岡城の城代家老を務めていた。天正十年(1582)の賤ヶ岳の戦いでは勝豊とともに近江長浜城を守った。その後、山内一豊に仕えて掛川へ移り、貞綱は相良居住を命ぜられてやがて帰農した。江戸中期には大庄屋となり幕末に至った。

 現在では長屋門や母屋が国指定の文化財になっている。休憩所ではここでしか販売されていないという「百葉茶」がいただける。腹の贅肉が取れるとのことで我が家の女たちが数袋買い込んでいた。

 大鐘屋敷を出て一路北上、諏訪原城へ向った。

 諏訪原城は天正元年(1573)に武田勝頼の指示によって馬場美濃守信春らによって築かれた城である。三日月堀や丸馬出が残されており、武田流築城術の典型であることなどから国指定史跡となっている。

 諏訪原城は実は17年ぶりの再訪である。当時は堀やその周辺まで樹木に覆われていたが、その後かなり整備が進んだようで遺構の見学がしやすくなっていた。

↑大鐘氏屋敷 長屋門

↑諏訪原城
3月20日(木)晴/江馬加賀守墓所奥平信昌屋敷(浜松市)

 徳川家康が永禄十一年(1568)の暮れに遠江へ進出して引馬城を攻めた。この時に引馬城主飯尾豊前守は今川氏真に謀殺されて居らず、妻のお田鶴の方が城主となっていた。そしてこの女城主を補佐していたのが江馬加賀守と江馬安芸守の重臣であった。ところがこの二人、仲違いして安芸守は武田方に、加賀守は徳川方に付くべしと譲らなかったという。安芸守は加賀守を討取り、さらに加賀守の家来が安芸守を討取り、城内はガタガタとなり、戦どころではなくなってしまった。
しかし、健気な女城主は侍女らを率いて打って出、壮絶な討死を果たして戦は終わった。家康は彼女の死を悼み、塚を築いて弔ったという。

 徳川方であった江馬加賀守の遺体を葬った所が浜松市上島の赤池山光福院(現・白華寺)の裏の高台にあり、墓碑が建っている。墓碑のそばに墳墓の印として植えられたという松が植えられており、「江馬殿松」と呼ばれている。

 奥平信昌屋敷は浜松城の南西500mほどの所にある。現在は浜松秋葉神社の境内に石柱が建つのみである。浜松市の立てた標柱には徳川家康家臣山家三方衆屋敷推定地となっている。いうまでもなく奥平信昌はこの山家三方衆のひとりである。信昌は天正三年(1575)の長篠合戦で長篠城を武田勢の攻撃から守り通したことで知られる。

↑江馬加賀守墓所

↑奥平信昌屋敷
3月9日(日)晴/火剣山砦(菊川市)、横岡城(島田市)

 今日は覚悟を決めての登山行である。少し大げさだが持病持ちの私には体力的にも不安があり、勇気ある決断を要するのである。目的の山は菊川市の火剣山標高282m、登山道入り口からの比高約100m、通常15分ほどの登山である。健康体の人であればたいした問題もない低山登山である。

 しかしながらなぜに苦労してまで火剣山に登るのか。そこが徳川家康の陣取った砦跡だからである。武田勝頼の築いた諏訪原城の攻略に乗り出した家康がここに本陣を構え、二月ほどの城攻めで諏訪原城を攻め落としたのである。登山の理由はそれだけであるが、歴史好きにとっては足を運ばざるを得ないのである。

 下山後、島田市の横岡城へ車を向けた。横岡城は土豪鶴見氏の城跡である。

 鶴見因幡守のとき、倉真の松葉城を攻めて河井蔵人を滅ぼしたことが知られている。その戦いの後、鶴見因幡守は今川氏に攻められて落城、討死した。いったい何があったのか、戦国の一情景に興味がそそられる城跡である。

↑火剣山砦 遠望(中央の山頂)

↑横岡城 井戸跡
2月20日(木)晴/鈴木氏屋敷中屋遺跡笹岡古城(浜松市)

 今季二度目の寒波。日本海側では連日の積雪に悩まされているが、太平洋側の特に静岡県では快晴の日が続いている。

 鈴木氏屋敷は遠州鉄道西ヶ崎駅の近くにあり、万斛庄屋公園となって改築されている。

 この鈴木氏は室町時代から当地の指導的立場にあったと言われ、浜松城に入った徳川家康は鈴木権右衛門を万斛(まんごく)村地域の庄屋に取り立てた。庄屋の中でも殿様に拝謁を許された格式の高い独礼庄屋であった。また、こんな話が伝えられている。家康は側室の阿茶局を鈴木家に預けていたらしい。


 天竜浜名湖鉄道の岩水寺駅の北、新東名の高架下に中屋遺跡はある。新東名の建設工事に際して発掘された遺跡で、鎌倉時代の方形居館跡とされた。鎌倉期の木製の鞍が発見されたことで知られる。

 かなり大規模な居館跡であったようだが、誰が主であったかは分からない。ただ、この地域の旧名が赤佐であることから井伊氏一族の赤佐氏の本貫地でもあることから赤佐氏の名があがっている。




 笹岡古城は天竜区役所の場所が城址であるが、遺構は役所の北側にそびえる山上にわずかに残る程度である。実はこの城跡は再訪なのであるが山上まで登っていなかったので本日登ってみることにした次第である。

↑鈴木氏屋敷

↑中屋遺跡

↑笹岡古城
2月8日(土)晴時々粉雪/賀茂真淵遺跡(浜松市)

 今季最強寒波と天気予報ではしきりに伝えている。晴れてはいるものの雲の流れは速く、粉雪が舞う一日であった。

 江戸中期、遠州(遠江国)を代表する国学者として賀茂真淵の存在を忘れてはならない。この当時、学問といえば孔子の説く儒学が中心であったが、こうした漢学に対して日本古来の万葉集や古事記を研究することによって日本固有の姿、文化を明らかにしようとしたのが国学である。

 賀茂真淵は万葉集の研究に取り組み、その教えは本居宣長の古事記の研究へと受け継がれて行くことになる。

↑賀茂真淵翁誕生地の顕彰碑
1月23日(木)晴/湯日城岡田城(島田市)、大熊備前守屋敷住吉陣屋(吉田町)

 今日は遠江国の東端にまで足を延ばした。遠江国と駿河国の国境は大井川である。

 富士山静岡空港の滑走路の北側に湯日城がある。湯日城は東遠の豪族勝間田氏が支城として築いたとされている。

 後に中山氏が城主となり、城下に養勝寺を開基したという。永禄11年(1568)、中山是非之助は遠州入りした徳川家康に臣従、城を出て高天神城主小笠原氏の組下に置かれ活躍した。その後、城は武田氏によって利用されたとされる。

 現状は茶畑の耕作放棄地となって藪化しており、踏査は困難である。

 岡田城は島田市内湯日川沿いにある。家康十男の徳川頼宣が駿府藩主のとき、家臣水野正重が代官所として構えたものである。

 現在城跡には稲荷神社が鎮座しており、周辺よりわずかに高台となっている。西側にはわずかに堀跡らしき窪みが見られる。




 榛原郡吉田町の大熊氏屋敷は小山城の南西約600mにある。元亀二年(1571)、武田信玄は小山城を普請して大熊備前守長秀を城主とした。その大熊氏が屋敷地としたのが当所である。

 現況は茶畑となっており、標柱と説明板が隅に立っている。







 住吉陣屋は江戸後期の伊勢長島藩主増山河内守の陣屋で、当地の庄屋久保田氏を代官とした。

 現在は吉田町中央公民館の敷地となって陣屋跡は消滅、史跡標柱が立つのみである。

↑湯日城

↑岡田城

↑大熊氏屋敷

↑住吉陣屋
1月9日(木)晴/刑部砦刑部城気賀陣屋(浜松市)

 寒波到来。とはいうものの、ここ太平洋岸の浜松は雪に覆われることはまずない。快晴の日が多く、乾燥した日が続くのがこの地方の冬なのである。

 刑部砦は三方原台地の北西端の台地上にある。県指定史跡の陣座ヶ谷古墳の東側である。県道261号沿いに「史蹟」と彫られた石碑が建てられている。

 これだけでは何の史跡なのか分からないが、裏に刻まれた碑文にその由来が記されている。内容は武田信玄が三方原合戦で徳川家康を大いに破り、この付近に15日間陣してから三河に向ったことなどである。

 刑部城、気賀陣屋ともに再訪である。

 刑部城は徳川家康の遠州入りの際に地元の郷士らが立て籠って抵抗したが、あえなく落城してしまった城である。

 城跡の二の曲輪には神社が鎮座しており、主曲輪の方は相変わらずの竹藪状態で踏み入ることは出来そうもない。

 気賀陣屋は「五近藤」のひとり近藤用可5000石を初代とする。陣屋としての遺構は宅地化によって失われ、御殿前に生えていた「椎」の古木のみが現在も同じ場所にある。

 樹勢は盛んなようで枯れることなく末永く、歴史を伝えてもらいたいものである。

↑刑部砦

↑刑部城

↑気賀陣屋