鈴木氏屋敷
(すずきしやしき)

浜松市中央区中郡町


▲鈴木氏屋敷は室町初期に当地へ土着した鈴木氏の屋敷である。
徳川家康の側室阿茶局が預けられていたと言い伝えられている。
(写真・改修後の屋敷門)

万斛の古独礼庄屋

遠州鉄道西ヶ崎駅の南300mほどに万斛(まんごく)庄屋公園がある。かつての万斛村の大庄屋鈴木権右衛門家の屋敷跡である。平成22年(2010)に土地と屋敷が浜松市に寄贈され、その後は建屋の修復や利活用が進められている。

この万斛村の鈴木家は浜松藩内では有玉下村の高林家(有玉南町)、笠井村の山下家(笠井町)、伊場村の岡部家(東伊場)とともに古独礼庄屋の格式を与えられていた。庄屋のなかでも独礼庄屋というのは藩主に単独で謁見できる身分のことで、それに「古」が付くとさらに格上とされた。

 遠江入りして浜松城を居城とした徳川家康は領内支配のために鈴木家の在野における統率力を利用して万斛村とその周辺の村々の代官的役割を担わせ、しかも独礼総代として厚遇したという(「浜松の史跡続編」)。

権右衛門を代々名乗る鈴木家が当地に住するようになったのは初代良宗(応永二年/1395没)で室町初期の頃とされている。今川氏時代の当地では沢木六郎左衛門が取り立てられていたが、徳川家康の進出によって鈴木権右衛門が取り立てられて沢木氏は没落したという。

言い伝えでは徳川家康の側室である阿茶局がこの権右衛門宅に預けられていたとう。家康は鷹狩の際に度々ここに寄っていたらしい。なぜ阿茶局が預けられたのかその経緯はわからない。阿茶局は後に大阪冬の陣の講和交渉で活躍したことが知られる才女で、家康の信任も厚かった。


▲屋敷門の説明板。明治期までは長屋門(左)であったがその後に棟門形式(右)に建て替えられた。

▲屋敷門前に建つ権右衛門家22代当主鈴木浩平氏の顕彰碑。浩平氏は大正時代に弓道の奥義を極め、後進の育成に務めた。

▲屋敷門をくぐると綺麗に修復整備された建物が現れる。

▲母屋。現在は鈴松庵という名の食事処となっている。

▲弓道場の建屋。

▲弓道場の的場。

▲祖霊社(氏神覆屋)。鈴木家は江戸後期に神道に変わったため、歴代の墓はここに移された。

▲昭和20年(1945)に鈴木浩平氏が積志村村長をしていた関係で建造されたというトーチカ。

▲区画溝(内堀)の跡。

▲駐車場や遊具も整備されている。

----備考---- 
訪問年月日 2025年2月20日
 主要参考資料 「浜松の史跡続編」他

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