(ほりこしにゅうどうぼしょ)
掛川市逆川
▲堀越入道墓所は小夜山口合戦で敗れた堀越貞延が鞍骨の池で自刃し、ここに葬られたという。
(写真・堀越入道の墓の御堂)
堀越入道と鞍骨の池
遠江に於ける東海道は掛川宿を下ると日坂宿に至る。その両宿場の中間位にかつての牛頭(ごうず)村(掛川市逆川)がある。ここに「堀越入道の墓」があり、その西側350mほどのところに大きな池がある。「鞍骨の池」と呼ばれる池である。 堀越入道とは堀越陸奥守貞延のことで、遠江今川氏の祖今川了俊の五代目で十五世紀中頃の国人である。代々堀越城(袋井市堀越)を本拠地とし、中遠地域における今川方の中心的存在であった。この当時、遠江国内は遠江守護となった斯波氏と駿河守護今川氏とのはざ間で両派に分かれて争う状況が続いていた。 文明六年(1474)、今川義忠は見付端城(磐田市見付)に拠る斯波方の狩野氏を攻め滅ぼした。そして見付端城の城将に堀越貞延をあてたのである。こうした状況に危機を感じたのが東遠における斯波方の横地氏(横地城)と勝間田氏(勝間田城)である。中遠の要所が今川方となっては腹背に敵を抱えることになるからである。 文明七年(1475)、堀越貞延は中遠に兵を進めようとする横地氏と勝間田氏の軍勢を討つべく、軍勢を率いて東海道を下った。当初、横地・勝間田勢は西山口(掛川市成滝)の辺りで応戦しようとしたが、地の利を得た海老名(あびな)まで後退して堀越勢の来るのを待ち伏せた。海老名川による峡谷地帯である。そこへ進入して来た堀越勢を横地・勝間田勢は周辺の山間から覆いかぶさるようにして殲滅してしまった。後に小夜山口の戦いと呼ばれる合戦である。 敗軍の将となった堀越貞延は戦場を離脱すると牛頭村の大池の畔にたどり着いた。疲労困憊の貞延は愛馬陸風を助けようと鞍を下ろして放した。鞍は池の堤に埋め、貞延は自刃して果てた。「掛川誌稿」に「昔堀越入道なるもの此池塘(ちとう/池の堤)にして自盡(自刃)せし時、其鞍橋(くらぼね/鞍のこと)を此池塘に埋めたるゆえに名づくと云、入道の墓は池東牛頭村の鞍壺坂にあり…」とある(()内は筆者)。 この合戦に勝利した横地・勝間田勢は軍勢を進めて、貞延の居た見付端城に入り、防備を強化して今川勢の来襲に備えた。翌文明八年(1476)、今川義忠は遠江へ駒を進め、一挙に横地・勝間田勢を打ち破り、滅ぼしてしまった。しかし、その帰途に塩買坂で横地・勝間田の残党に襲われてあえなく落命してしまう。まさに戦国乱世の様相ここに極まれりの感がある。 現在、鞍橋(くらぼね/現在では鞍骨)の池から東に行くと緩やかな坂道になっている。「掛川誌稿」の伝える鞍壺坂なのであろう。上がりきったところを南に入ると堀越入道の墓とされる小さな御堂が整備されている。当時、自害した貞延は村人によって埋葬され、庄屋山崎彦左衛門が門前に小祠を建てて貞延を供養したとされる。なお、合戦等の年次については諸説あることをお断りしておく。 |
![]() ▲堀越入道の墓。古くは五輪塔であったが、いつしか石地蔵となったという。サッシのガラスが反射して内部が見にくかった。 |
![]() ▲説明板。地元では「堀越様」と呼ばれている。 |
![]() ▲鞍骨の池。堀越貞延はこの池の堤で愛馬を放し、鞍を埋め、自刃した。 |
![]() ▲説明板。当時は現在の二倍の広さであったとある。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年6月5日 |
主要参考資料 | 「勝田氏物語」 |
「掛川誌稿」他 |