朝比奈城
(あさひなじょう)

御前崎市下朝比奈


▲朝比奈城は今川配下の曾根孫大夫長一の城跡とされ、その北麓に屋敷を構えていた。
(写真・朝比奈城の遠景)

横須賀衆曾根氏の古城

御前崎市の中央部を東西に流れる朝比奈川の南岸、台地支尾根に朝比奈城は築かれいる。城主としての名が伝わるのは曾根孫大夫長一である。城山の北麓には曾根氏の屋敷跡が伝えられている。

曾根孫大夫は今川氏の麾下にあり、高天神城主小笠原与八郎氏助(長忠)の寄子として有事の際には高天神城の守備に駆け付けていた。永禄十一年(1568)暮れ、徳川家康の遠江進出に際しては寄親の小笠原氏と共に徳川方に従い、それまでと同様に高天神城の守備に就いた。

元亀二年(1571)の武田信玄による高天神城攻めの際、曾根孫大夫は若干二十一歳の小笠原氏助の付き添いとして渥美源五郎らと共に本丸の守備に配されている。

天正二年(1574)の武田勝頼による高天神城攻めは長期にわたり、しかも徳川の援軍は来ずで城主小笠原氏助は城兵を救うために開城降伏を決断した。開城後、城兵は小笠原氏助と共に武田に降る者と徳川に戻る者とに分かれた。曾根孫大夫は徳川方に残る道を選び、後に横須賀城主となる大須賀康高の麾下となり、久世三四郎や渥美源五郎らと共に横須賀衆と称せられ、武田勢との戦いで活躍した。

天正十九年(1591)、大須賀氏が上総久留里城に封ぜられると、横須賀衆も上総に移った。慶長六年(1601)、大須賀忠政が再び横須賀城主となると横須賀衆も旧領に戻った。しかし、元和元年(1615)に大須賀氏は断絶となり、横須賀衆の多くは徳川頼宣に付された。元和五年(1619)、徳川頼宣は紀伊国に移ることになり、曾根孫大夫もこれに従って紀伊に移った。

現在、城跡の台地側尾根には二重の堀切が残されている。これは高天神城が天正二年(1574)から落城の天正九年(1581)まで武田勢の城であった期間にその糧道確保のために東遠各地には城が築かれ、或いは既存の城を改修して利用されており、朝比奈城もそのひとつであったものとみられている。


▲北麓西側に旧妙音庵薬師堂があり、そこに駐車させていただいた。ここからも登城できるようだ。

▲北麓東側の墓地経由の登城口。

▲墓地までは踏み跡があったのだが、そこを過ぎると道を下草が覆い始める。

▲主郭手前約60mでご覧のような藪となり、道も判別できず、危険と判断して引き返すことにした。

▲登城口の墓地付近からの北方の眺め。前方の丘陵上にも武田方が改修したとされる横舟城跡がある。

▲朝比奈川からの城址遠望。上の矢印が城址、下の矢印は屋敷跡。

----備考---- 
訪問年月日 2025年6月5日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」他

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