本宮山城
(ほんぐうさんじょう)

掛川市八坂


▲本宮山城は今川家臣加茂氏の要害と伝えられ、永禄十二年(1569)に
反徳川の一揆勢がここに立て籠もり、その多くが討ち取られたという。
(写真・本宮山に鎮座する本宮への登り口)

徳川に背いた一揆勢

掛川市の東部、日坂に至る街道沿いに遠江国一宮事任八幡宮が鎮座している。事任は「ことのまま」と読む。願い事が言葉のままに叶うという神社である。この神社の本宮(奥宮)の置かれている山が本宮山と呼ばれ、山頂には曲輪跡が残されており、本宮山城と呼ばれる城跡となっている。

築城時期、築城者ともに不詳であるが、城館資料によれば永禄十二年(1569)に遠江へ進攻して今川氏真の籠る掛川城の攻略に取り掛かった徳川家康に対して反旗を翻した一揆勢がここ本宮山(日坂八幡山)に楯籠ったことが記されている。総勢三千人以上が参集したとされ、その首謀者の中に地元の有力者であった加茂氏がいたとされる。

この加茂氏は天文(1532-55)当時に今川義元の寺社奉行を務めた加茂右京亮がおり、その後裔とされる加茂加次郎が一揆勢をみずからの要害である本宮山城に集めたものと思われる。「掛川誌稿」に「…本宮山の絶頂に、賀茂(加茂)賀(加)次郎が墓と云者あり、是も彼右京亮が後にや、又本宮山にある古墟は即賀茂氏の要害なりしや…」とある。

三千人以上の一揆勢は本宮山の頂上だけに収まるはずもなく、山腹やその周辺にも柵を結って立て籠もったであろうことは想像できる。反徳川の一揆勢が立ち上がったのはここだけではなく浜名湖北岸の堀川城の戦いも有名である。堀川城には二千人が立て籠もり、徳川勢は容赦のない城攻めを行って千人ほどを撫で斬りにし、その後も七百人ほどが捕らえられて打ち首になったという。

ここ本宮山の一揆勢に対しても徳川勢は容赦なく攻め立て、簡単に落としてしまったらしい。犠牲者は三千余人が討たれたと言われている。凄惨な殺戮戦であったことがわかる。江戸中期に編纂された「掛川誌稿」には本宮山の山頂に加茂加次郎の墓があったと記されている。

現在、山頂には加茂加次郎の墓は無く、わずかに土塁や堀切の跡が見られる程度であるようだ。


▲事任八幡宮本宮への登り口。

▲本宮までの石段は271段。健脚の方なら5分程度らしいが私は休み休みで10分以上かかってしまった。

▲あともう少し。

▲事任本宮。一揆勢はこの辺りにも柵を結って抵抗したのであろうか。山頂へはここからさらに15分ほどかかる。

----備考---- 
訪問年月日 2025年7月22日
 主要参考資料 「静岡県の城跡」
「掛川誌稿」他

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