石谷氏館
(いしがやしやかた)

掛川市上西郷


▲石谷氏館は一族の石田氏が当地に屋敷を構え、石谷氏の祖霊を祀った所である。
(写真・館跡とされる霊栄大明神)

石谷氏を祀る霊栄大明神

掛川市上西郷の田園地帯、倉真川が大きく蛇行する所に霊栄大明神と呼ばれる祠堂が建てられている。城館資料などにはこの霊栄大明神の辺りを石谷氏館跡として紹介されている。

石谷氏は近在の西郷十八士の長であった西郷十郎右衛門政清が元亀二年(1571)に子の政信、清定を連れて徳川家康に仕えた際に西郷氏を改めて石谷氏を称したことにはじまる。東三河の西郷氏に遠慮したのであろうか。この当時の石谷氏の館は「名字石」の残る石ヶ谷地区にあったようだが、遺構の確認はされてない。

その後の石谷氏は徳川家の旗本として活躍した。家康の関東入府にも従い、武蔵国多摩郡内に采地を賜った。清定の子の十蔵貞清は徳川秀忠に仕え、島原の乱では幕府軍の副使を務めた。乱後は左近将監、千五百石を拝領した。

一方で本貫地である上西郷村に残った石谷氏の一族は江戸中期には庄屋のひとり中島の平八として名を残している(「掛川誌稿」)。この平八は村の中島地区に屋敷を構えたのでそう呼ばれた。この中島の平八というのは石田平八郎のことで「遠江古跡図絵」には石谷氏を改め石田氏を名乗ったと記されている。また同書には石田平八郎が屋敷を二十町(約2km)ほど南へ移したとある。「名字石」のある石ヶ谷から屋敷を中島に移したということであろうか。もともと中島は石谷氏の私有地のひとつであったのであろう。「掛川誌稿」には「石谷十蔵の故宅」とある。

この石田平八郎、「掛川誌稿」には正徳三年(1713)に七基の墓碑を集めてひとつとし祠を建てて霊栄大明神と呼び、江戸の石谷氏から維持費としての扶持米を頂いていたとある。

現在はのどかな田園と住宅地の外れに祠を覆う立派な建屋と鳥居が建てられている。


▲この建屋(祠堂)の中に祠が祀られている。

▲霊栄大明神を覆う建屋。

----備考---- 
訪問年月日 2025年8月5日
 主要参考資料 「遠江古跡図絵」
「掛川誌稿」他

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