(みょうじいし)
掛川市上西郷
▲名字石は石谷氏発祥の由来を伝える奇岩群であり、最初の屋敷地であったと伝えられている。
(写真・名字石と説明板)
石谷氏の発祥地
掛川市上西郷の石ヶ谷地区の山間に九つの奇岩が群立する場所がある。「名字石」「家紋石」「九曜石」などと呼ばれている。かつてここに土豪石谷(いしがや)氏の居館があったとされ、その家紋はこの奇岩にちなんで「九曜紋」となっている。 最初に石谷氏を名乗ったのは西郷十郎右衛門政清である。政清は近在の地侍西郷十八士の長であり、今川義元や氏真に仕えていたという。永禄十二年(1569)一月、政清は遠江に進出してきた徳川家康に従属の意志を表して飛島郷一色(掛川市家代)の地を与えられている。元亀二年(1571)三月、政清は嫡子政信、次男清定と共に召し出されて家康に仕え、この時に西郷を改めて石谷を称したと伝えられている。政清、天正十二年(1574)、没。 天正十八年(1590)、石谷氏は徳川家康の関東移封に従い、武蔵国多摩郡内に采地を得た。政信は二百石、清定は二百五十石であった。 清定は入間村(調布市)百五十石と和泉村(狛江市)百石を拝領して泉龍寺(狛江市元和泉)南東(狛江駅南口)に陣屋を構えた。清定は泉龍寺の整備を行い、一族の菩提寺とした。慶長六年(1601)、没。 清定の次男十蔵貞清は慶長十四年(1609)に徳川秀忠に召されて仕えた。寛永十四年(1637)の島原の乱では総大将板倉重昌の副使を務めて原城の攻略に奮戦、戦後には左近将監に任ぜられた。千五百石を拝領、寛文十二年(1672)没。以後、代々続き旗本として幕末に至った。 一方、本貫地である西郷村では石谷改め石田となった名主石田平八郎が屋敷を南へ二十町(約2km)の所に移し、十蔵貞清から二人扶持を与えられたと「遠江国古跡図絵」に記されている。 さて、石谷氏の名の由来となった「名字石」である。石にはそれぞれ名前が付けられている。「烏帽子石」「御先石」「目付石」「見付石」「碁盤石」「兜石」「御供石」「丸石」である。「御供石」は二個あり、「丸石」のみは少し離れた山の中段にあるとされている。 現在、「名字石」を訪ねると由来を記した説明板が立てられており、苔むす奇岩が戦国を生き抜いた石谷氏の生き様を黙って伝えているように思えてならない。 |
![]() ▲説明板。 |
![]() ▲奇岩にはそれぞれ名前が付けられている。 |
![]() ▲左が「烏帽子石」、手前中が「御先石」、その右が「目付石」である。 |
![]() ▲右は「烏帽子石」で左が「御供石」である。 |
![]() ▲ここに至る道路は狭く、すれ違い困難なので徒歩の方が安心だろう。 |
![]() ▲名字石のある南側は畑の跡と思われ、屋敷の遺構は確認されていない。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年6月19日 |
主要参考資料 | 「遠江古跡図絵」 |
↑ | 「掛川誌稿」他 |