(たちばなのはやなりぼしょ)
市指定史跡(伝橘逸勢墓)
浜松市浜名区三ヶ日町本坂
▲橘逸勢墓所は承和の変(842)で謀反人とされ、伊豆へ配流となった橘逸勢が
その途次にここで死没し、一行に従っていた娘によって埋葬された場所である。
(写真・橘逸勢の墓石と社)
孝女妙冲尼
浜名湖北の三ヶ日から姫街道(国道362号)は本坂峠を越えて三河へ至る。その峠(現在はトンネル)の手前に本坂の関所跡があり、その北側台地上に橘逸勢(たちばなのはやなり)を祀る神社がある。 橘逸勢は桓武天皇の延暦二十三年(804)に最澄や空海らと共に遣唐使として唐に赴き、琴と書を学び二年ほどして空海らと共に帰国した。帰国後は能書家として知られ、晩年に至り但馬権守に任ぜられた。承和九年(842)、橘逸勢は承和の変と呼ばれる藤原氏による皇位継承争いに巻き込まれてしまう。 承和の変は中納言藤原良房が仁明天皇と妹順子の間に生まれていた道康親王(後の文徳天皇)を皇太子とするためにすでに皇太子であった恒貞親王を廃した政変である。橘逸勢はこの恒貞親王に仕えていたとされる。親王の側近である伴健岑(とものこわみね)は親王の身を案じて東国へ移すことを画策したが、この件は仁明天皇の耳にまで達してしまう。天皇は伴健岑と橘逸勢を謀反人と断じて捕縛させ、伴健岑は隠岐、橘逸勢は伊豆へ流罪となった。恒貞親王はその後出家して嵯峨大覚寺の初祖となった。 伊豆流罪となった橘逸勢は姓を「非人」とされ、監送の兵に護送されて遠江国板築(ほうづき)駅まで来たところで死んでしまった。捕縛された時には拷問を受けたとされ、六十歳を超える高齢であったこともあり、過酷な移動に耐えられなかったのかも知れない。板築駅の場所については明確でなく、内山真龍著「遠江国風土記伝」には日比沢(三ヶ日町)あたりかと記されている(他に袋井市説あり)。 「日本文徳天皇実録」に橘逸勢とその娘のことが記されているという。橘逸勢が伊豆へ流される道中、娘は泣き悲しんで父の後を追い、警護の兵は娘に去るように叱ったが、それでも追いすがる娘の行動に遂には折れて付き従うことを許したという。そして遠江国の板築駅で父が死没すると娘はそこに埋葬して去らず、落髪して尼となり妙冲と名乗った。妙冲は庵を結び日夜父の菩提を弔い続け、ここを通る旅人たちは皆涙を流したという。文徳天皇の嘉祥三年(850)、橘逸勢の罪は許され、正五位下が贈位されて帰葬が認められた。妙冲尼は父の遺骨を背負って都に戻り、改葬した。時の人々は妙冲尼のことを孝女と称えたという。三年後、さらに従四位下を贈位された。 現在、橘逸勢を祀る橘神社の境内には小さな社の横に逸勢の墓石が残されている。また孝女妙冲尼を顕彰する「旌孝碑」や筆塚、「妙冲観音」像などが境内に建立されている。説明板によると橘逸勢の帰葬の際にそれまでの墓に銅鏡が埋められたが、江戸末期に盗難に遭ったとある。銅鏡は後に発見されたが、大正末年に再び紛失されて現在に至るまで不明の状態だという。 |
![]() ▲国道362号沿いに参道となる階段が設けられている。 |
![]() ▲「橘逸勢卿史蹟」の碑が建つ。 |
![]() ▲参道中段には様々な碑が建立されている。これは橘逸勢の娘妙冲尼を讃えた「旌孝碑」。題字は徳川家達である。 |
![]() ▲妙冲観音像。手前は筆塚。 |
![]() ▲橘逸勢は遣唐使として唐の長安、現在の西安市で書に励んだ。これは日本書道芸術学院によって建てられた記念碑である。 |
![]() ▲橘逸勢の筆とされる「伊都内親王願文」の碑。江戸時代には嵯峨天皇、空海に並ぶ三筆と称された。 |
![]() ▲昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が橘逸勢娘と題した歌碑。 |
![]() ▲「写経納経塔」。 |
![]() ▲この地は書神・三筆・秀才橘逸勢卿の聖地であると記されている。 |
![]() ▲説明板。 |
![]() ▲最上段に橘神社の社が建つ。 |
![]() ▲神社の向って右が橘逸勢の墓石である。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年6月1日 |
主要参考資料 | 現地説明板・他 |