(かわいそうちゅうぼしょ)
掛川市大野
▲川合宗忠墓所は明応五年(1496)に居城の松葉城を勝間田氏
と鶴見氏に攻められて落城自害した川合成信の墓である。
(写真・長松院参道の宗忠墓所)
幽霊御朱印伝説
掛川市日坂から北北西約1.5kmの山間に禅刹長松院がある。山門に至る参道に「川合宗忠の墓」と書かれた標柱と「河合宗忠之墓碑」と刻まれた石柱が建ち、その傍らに古い五輪塔が並んでいる。川合宗忠夫妻の墓である。「川合」は「河井」とも「河合」とも記される。 川合宗忠とは松葉城主川合蔵人成信のことで、「宗忠」は法名である。長松院は文明三年(1471)に石宙永珊和尚によって開山され、川合成信が松葉城主となった時期とされる。長松院と川合氏は開山当初から関係があったようで、寺域は松葉城からは離れているが川合氏の領域内にあったものと思われる。川合氏は今川氏に仕えており、文明十八年(1486)には今川氏親の叔父教之一訓和尚が長松院二世となっている。遠江守護の斯波氏との抗争を続ける今川氏にとって川合氏は重要な協力者であったのだ。 明応五年(1496)九月、斯波方の勝間田城主勝間田播磨守と横岡城主鶴見因幡守が松葉城を襲った。松葉城の川合成信は家臣の裏切りもあって防戦かなわず、一族こぞって倉真川の淵に身を沈めて自害してしまった。「宗忠淵」「御台淵」「姫淵」などの名が川の幾つもの淵に付けられているという。 一説には、川合成信は松葉城落城後ここ長松院まで落ち延びた後に自害したと伝えられ、寺のそばを流れる逆川の淵に遺体を沈めたという(「遠江古跡図絵」)。逆川にも「宗忠淵」などの名が残されている。さらには長松院の境内には松原城という川合成信の城があったとまで誤伝されてしまっている。それは「遠江国風土記伝」の著者内山真龍の誤記であろうとされ、静岡古城研究会「静岡県の城跡」には「松原城はその名前・伝承・遺構ともに虚構である」と断じている。 松葉城落城後、今川氏親は庇護者である川合氏を失った長松院に采地寄進の證文を与えて川合成信の菩提を弔った。長松院では川合成信を祀り、開基とした。その直後、氏親は軍勢を横岡城に向け、鶴見氏を滅ぼしてしまった。 こんな話が伝えられている。長松院に帰依する川合成信は事あるごとに喜捨(寄付)を重ねていたが志半ばで滅亡してしまった。それから年月が過ぎて天下も徳川家康が治める頃となった。家康が駕籠に乗って日坂宿から小夜の中山を通ったおり、裃を着た侍が一通の願書を差し出してきた。家康は駕籠を止めて願書を見ると長松院に五百石の御朱印を賜りたいとあり、その侍は宗忠の幽霊であったというのだ。「遠江古跡図絵」に「神君、幽霊と有るに驚きたまひ、早速望みに任せ五百石の御朱印を下され置くなり。今以て幽霊御朱印とて所持す」とある。 いま、宗忠の墓塔の前に立つと彼の無念の思いがひしと伝わってくるのは私だけではないだろう。 |
![]() ▲長松院参道入り口。 |
![]() ▲参道脇に整備された宗忠の墓碑。 |
![]() ▲墓碑の横に並ぶ宗忠夫妻の五輪塔。 |
![]() ▲宗忠夫妻の墓と並ぶ大須賀鬼卵の墓。鬼卵は日坂宿を終の棲家とした絵画や狂歌などに秀でた人で、「東海道人物志」などの著作も残している。 |
![]() ▲長松院の山門。 |
![]() ▲長松院の本堂。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年7月22日 |
主要参考資料 | 「静岡県の城跡」 |
↑ | 「遠江古跡図絵」他 |