奥平信昌屋敷
(おくだいらのぶまさやしき)

浜松市中央区三組町


▲奥平信昌屋敷は徳川家康の浜松在城時代に城下に構えられた家臣屋敷のひとつである。
(写真・奥平屋敷に勧請されたという秋葉神社)

故地を去り家康に帰参

浜松城の南西約500mの高台に浜松秋葉神社がある。この神社の境内の片隅に「奥平信昌邸跡」の小さな石柱碑が建っている。かつて徳川家康の家臣奥平信昌の屋敷がここにあったことを示している。秋葉神社御由緒によれば永禄十三年(1570)に徳川家康公が浜松城入城の際、北遠の霊山秋葉山より勧請し、家臣奥平信昌の屋敷に建立したとある。

しかし、永禄十三年当時の奥平氏は三河亀山城(新城市作手)を居城とする国衆で当初徳川方であったがこの頃は勢い盛んな武田方に属しており、浜松城下に屋敷を持つような状況にはなかったと思われる。奥平信昌の父貞能が一族を引き連れて徳川方に付くために亀山城を退去したのが天正元年(1573)であり、この時に貞能が百余人を率いて浜松城の家康のもとに移ったとされる。奥平氏が浜松城下に屋敷を持ったとすればこの時のことではないだろうか。

貞能の嫡男貞昌(=信昌)は家康から長篠城の城番を命ぜられ、天正三年(1575)には城主として長篠合戦を戦い抜いた。戦後、織田信長の偏諱を賜り信昌と名乗った。翌年には新城城(新城市東入船)を築いて居城とし、家康の長女亀姫を娶り、天正十八年(1590)までここに住した。

したがって浜松城下の奥平屋敷には信昌の父貞能が居住して、信昌との連絡の機能を果たしていたものと思われる。

またこの秋葉神社には天正十年(1582)の天正壬午の乱後に八百名以上の武田旧臣が家康のもとに参じ、起請文を奉納している。そしてこの武田旧臣は井伊直政に付属され、武田の赤備えを継承して「井伊の赤備え」となり、その誕生の地となった。


▲鳥居脇に立てられた説明板。井伊家ゆかりの地ということで赤備え誕生の地であることが書かれている。

▲浜松城の南西に屋敷が構えられていた。

▲鳥居脇に立てられた「山家三方衆屋敷推定地」の標柱。奥平氏は山家三方衆のひとりである。

▲「奥平信昌邸跡」の石柱碑。

▲秋葉神社本殿。

▲邸跡の碑は本殿右側の回廊の外側(黄矢印)にある。

----備考---- 
訪問年月日 2025年3月20日
 主要参考資料 「山家三方衆」他

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