(だてがたじょう)
掛川市伊達方
▲伊達方城は遠江伊達氏の一族伊達縫殿助の城跡と伝えられている。
(写真・墓地の裏山が城山である)
伊達縫殿助の古城
現代の東海道である国道1号は掛川市の東部で日坂にさしかかる。その西手前に八坂ICがあり、そこから西北約650mに慶雲寺という禅刹がある。この辺りは「伊達方」と呼ばれる地域で、かつては今川氏の家臣伊達氏の所領地であった所である。 江戸時代に編纂された「掛川誌稿」には「伊達縫殿古墟 今の慶雲寺の地は舊(もと)伊達縫殿助と云(いう)人の古墟なるよし…今川家の時の人にやあらん、天文の初には、伊達氏も断絶して、禅院となりし…」とある。 伊達氏といえば奥州の伊達氏が本流であるのは誰もが知るところである。しかしその支流は出雲、但馬、備中、伊勢、駿河に分布している。 駿河における伊達氏の登場は伊達右近将監景宗に始まる。伊達宗家初代朝宗の四男為家の系列で六世の孫とされている。南北朝の争乱期、景宗は足利尊氏に従っていたが、やがて駿河守護となった今川範国に属して観応の擾乱では足利直義の軍勢と戦い、武功を重ねた。その功績により入江庄(静岡市清水区)に所領を得た。その後子孫は遠江国山名庄諸井郷(袋井市諸井)へ移り、本領とした。 伊達方城の主である伊達縫殿助の系譜は判然としない。おそらく諸井郷に移った伊達氏の一族であったかもしれない。いずれにせよ伊達方の伊達氏は天文(1532-55)の初めには断絶したとされ、その屋敷地には慶雲寺が建立された。 慶雲寺の裏山が城跡とされるが、ここも藪化が進んで訪問者の進入を阻んでいる。 |
![]() ▲慶雲寺の山門。 |
![]() ▲慶雲寺の本堂。伊達縫殿助の屋敷地であったという。 |
![]() ▲墓地の西側に城跡への道がある。 |
![]() ▲道はやがて切通しのようになっている。 |
![]() ▲切通しの突き当りが城址の平場である。 |
![]() ▲かつて茶畑や墓地となっていた関係で改変されているという。しかし、訪城者を拒むかのように笹薮となっていた。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年6月5日 |
主要参考資料 | 「静岡県の城跡」 |
↑ | 「掛川誌稿」他 |