(おおくまびぜんのかみやしき)
町指定史跡
榛原郡吉田町神戸
▲大熊備前守屋敷は武田信玄によって小山城が整備され
た際にその城主となった大熊長秀の屋敷跡と言われる。
(写真・茶園と化した屋敷跡)
足軽大将大熊備前守
吉田町の湯日川段丘上に武田氏の整備した小山城跡があり、この小山城跡の西約500mの同一段丘上に吉田町指定の史跡となっている大熊備前守屋敷跡がある。 大熊備前守長秀は越後の上杉謙信の家臣で箕冠城(新潟県上越市)主であった大熊朝秀の子である。弘治二年(1556)、朝秀は上杉家中の対立争いに巻き込まれて武田信玄の許へ子等とともに身を寄せた。その後、長秀は信玄麾下の山県昌景の同心となった。永禄八年(1565)の上州箕輪城(群馬県高崎市)攻めでは大活躍して信玄から感状をいただき、馬上三十騎と足軽七十五人を預かり、足軽大将となった。この時に備前守を名乗ったという。 元亀二年(1571)、信玄は大軍をもって大井川を渡り、小山城を大改修して大熊備前守長秀を城主(定番)として置いた。後備には相木市兵衛の八十騎が加わった。長秀の小山城在城の期間は一年余であったとされる。この間に長秀はここに屋敷を置いたという。小山城の出城のようなものであったのだろう。天正十年(1582)、長秀は武田勝頼を裏切ったことにより、織田方に捕縛されて処刑されたという。 現在は屋敷地の北側と東側が工場や病院の用地として削り取られ、わずかに茶園部分が残っているにすぎない。かつては二重の土塁が残っていたらしいが今では消滅して見ることはできない。 |
![]() ▲史跡標柱。 |
![]() ▲屋敷跡の説明板。 |
![]() ▲茶園の中に標柱が立っている。 |
![]() ▲屋敷跡の南縁には腰曲輪があるというが竹藪となって確認できない。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年1月23日 |
主要参考資料 | 「続・遠州小山城史考」他 |