穴ヶ谷城
(あながやじょう)

市指定史跡

牧之原市中


▲穴ヶ谷城は勝間田氏の支城群のひとつで、勝間田川の中流域に築かれている。
(写真・東曲輪東面の土塁)

勝間田氏の支城

牧之原市を西北から南東へと流れて駿河湾に至る勝間田川の流域は平安末期から戦国期に至るまで土地の支配者であった勝間田氏の領域である。その中流域の「中」集落の東方山上に穴ヶ谷城は築かれている。またの名を中村城とも呼ぶ。

穴ヶ谷城は勝間田氏の本城勝間田城の支城群のひとつで、湯日城龍眼山城滝堺古城らと並ぶ城である。穴ヶ谷城の築城時期は室町初期とされており、築城当初は西曲輪のみであったが、応仁の乱(1467)あたりから東曲輪が増築されたと見られている。

築城者が勝間田氏であることは間違いないのであるが、具体的な名が出てくるのは勝間田十郎政次である。政次は室町中期の武士で、宝徳元年(1449)に城下の中村に長興寺を建立して開基となっており、穴ヶ谷城の守将であったものと見られている。

勝間田氏は文明八年(1476)に今川義忠によって横地氏(横地城)とともに滅ぼされてしまう。その際に穴ヶ谷城も落城したものとされているが、明確な記録はないようだ。

その後、天正七年(1579)頃における武田と徳川の抗争期に手が加えられたとの見方があり、東曲輪の東面における土塁や重層的な堀切や竪堀は両者による改修の痕跡であるとされている。

城址の現状は茶畑の耕作放棄地となっており、通路以外は踏み入ることも見ることもできなくなっている。このまま放置状態が続けば数年後には遺構の調査どころではなくなってしまうだろう。


▲山麓の小仁田薬師堂。建立は建久十年(1199)というから勝間田氏初代成長のときである。

▲薬師堂から茶畑の間を城跡へ向う。周辺の茶畑は耕作放棄されており、背丈以上に伸びた茶の木で見通しがきかない。

▲薬師堂から約8分で最初の鉄塔に至る。

▲鉄塔から山道を登ると数分で最初の堀切に到着。

▲堀切は二重になっている。

▲正面に土塁。左側は通路開削のために削られている。東曲輪の入口である。

▲東曲輪の南縁の土塁跡。

▲東曲輪の通路以外は茶畑の放棄地となっており、踏み入ることはできない。

▲東曲輪と西曲輪の中間点には電波塔が建っている。

▲電波塔の先まで進んだがやはり茶畑の放棄地となっていたので探索はやめた。

▲下山途中に視界が開け、遠く駿河湾が望見できた。

▲小仁田薬師堂前の駐車場。

----備考---- 
訪問年月日 2025年4月17日
 主要参考資料 「勝田氏物語」他

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