(りゅうげんざんじょう)
牧之原市静波
▲ 龍眼山城の南の曲輪。ここからは駿河湾が目前に広
がり、海上の様子を監視するには最適な場所である。
沿岸監視、
繋ぎの城
この龍眼山城は当初、勝間田氏に関連する城のひとつに充てられていたが、近年ではその縄張や築城形態などから推して武田氏によるものと推定されている。 たしかに立地条件はここから南南西約4kmのところにある滝堺城に似ている。いずれも台地先端部の地形を利用して築かれており、その背後(台地側)に曲輪を設け、それぞれ堀切や土塁で防御線を構築している。 そして滝堺城が遠江における武田の最前線拠点である高天神城に至る海上交通の監視と浜街道を押えるという補給線確保の繋ぎの城であったことを思えば、この龍眼山城も同様の目的で築かれたものと思われる。 元亀二年(1571)、駿河を手中にした武田信玄は大軍をもって大井川を渡り、遠江への進攻をはじめた。まず小山城の徳川勢を蹴散らし、勝間田庄を切り取りつつ軍を進め、さらに塩買坂から高天神城に迫った。 この進撃の過程で、信玄は小山城の強化と滝堺城の築城を命じた。龍眼山城が武田氏によるものであるとすれば、この時に築かれた可能性が高い。もしくは天正四年(1576)に武田勝頼が滝堺城の南約3mの相良湊に相良城を築き、水軍および海上輸送の拠点としたが、この頃に築かれた可能性もある。いずれにせよ、元亀二年から天正四年にかけての期間であったことは間違いないことと思われる。 ちょうど龍眼山城は小山城と滝堺城の中間点にあたり、両城の繋ぎの城としての役割を担ったであろうことは容易に推察できる。 |
▲ 南の曲輪から展望した駿河湾。 |
▲ 南の曲輪と北の曲輪の間に残る土塁の遺構。 |
▲ 北の曲輪は現在茶畑となっている。 |
----備考---- |
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画像の撮影時期*2009/11 |