(おさかべじょう)
浜松市浜名区細江町中川
▲ 現在、県道261号線(姫街道)が城址を寸断している。
写真左の↓は本城曲輪、右の↓は二の曲輪である。
今川方土豪の城
永禄十一年(1568)末、井伊谷三人衆(菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時)の合力を得た徳川家康は遠江への進出を開始した。 陣座峠から遠江入りした徳川勢は奥山を経由して井伊氏の故地井伊谷城を攻略、今川勢を駆逐しながら引馬城を目指した。 刑部城の攻防はその過程で起きた。刑部城は今川方の城として永正(1504-20)の頃から存在していたことが分かっている。遠江守護今川氏親と先の遠江守護斯波義達の争いでは刑部城が今川方の拠点として利用されていたことが伝えられている。 城には今川の臣である庵原庄太郎忠良、長谷川次郎右衛門秀匡らと地元の内山党がたて籠り、三河からの侵入者に備えていた。 対する徳川勢は三河野田の菅沼新八郎定盈が手勢を率いて攻めかかった。 「このような小城、わが一手にて十分でござる」 といったところであろう。 遠江入りして勢いにのる菅沼勢の攻撃は熾烈をきわめ、刑部城はあっけなく落城。定盈の叔父、菅沼又左衛門が城に留まって気賀方面の押さえに目を光らせることになった。 それにしても、落城に悲話はつきものである。ここ刑部城も例外ではない。 落城に際し、城主の美しい姫が敵手にかかって恥をさらすことを厭い、城のそばの池に身を沈めた。そして金襴の蛇に姿を変えたという。その後、村人はこの池を金襴の池と呼び、後世に語り伝えた。 現在は、その池は埋め立てられて存在しないが、せめて城址だけはいつまでも残しておいて欲しいものである。そこで命を落としたつわものたちと、池に身を沈めた姫君のためにも。 |
![]() ▲城址北端部にある金山神社。 |
![]() ▲神社参道の東側平地前に「館跡」の看板があった。 |
![]() ▲神社への階段手前西側の鞍部は本城曲輪と二の曲輪の堀切跡とされる。 |
![]() ▲神社の南側が本城曲輪であるがご覧のように竹藪がひどく、踏み入ることは困難である。 |
![]() ▲金山神社の本殿。ここは二の曲輪跡になる。 |
![]() ▲東側からの城址遠望。 |
![]() ▲説明板。 |
![]() ▲「金襴の池」の説明板。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2004年2月8日 |
再訪年月日 | 2025年1月9日 |
主要参考資料 | 「静岡県の中世城館跡」他 |