(ひきじょう)
御前崎市比木
▲比木城は武徳抗争期に武田方によって改修されたものとされている。
(写真・主曲輪前の案内板/城跡は藪化している)
糧道確保の城
御前崎市東部比木地区の北部台地上に比木城は築かれている。地形的には台地支尾根の南端部を利用している。残念ながらこの城の創築年代や築城者については不明とされている。 筬川(おさがわ)中流の西流している地域がかつては比木郷と呼ばれた。この地の歴史は古く記紀の時代にまでさかのぼる。応神天皇の皇子に大山守皇子がおり、その後裔のひとりの弊岐君(へきのきみ)に当地が与えられたというのである。古墳時代であろうか。その後、幣岐が転訛して比木になったという。 室町時代には西方郷(菊川市)の土豪堀内若狭守行重の母が比木弾正の娘であると伝えられており、比木郷の有力者として比木氏の存在が考えられている。ただ、比木氏についてはそれ以上のことは分からない。 静岡古城研究会の「静岡県の城跡」によれば「全体的には武田・徳川両氏による高天神城の抗争期に、武田氏の改修を受けた蓋然性は高い…」としている。 天正二年(1574)に高天神城が武田勝頼によって落とされると、東遠一帯は武田氏の支配下に置かれ、同城への補給線がいくつも設定されたはずである。天正三年(1575)に徳川家康の巻き返しが始まり、諏訪原城が落とされると内陸ルートが使えなくなった。そうすると海岸沿いのルート、つまり小山城、滝堺城、相良城そしてここ比木を通るルートが重要性を帯びてくる。そうした状況下で比木城が利用されたものと思われる。 現状は城址一帯が茶畑となっている。残念なことに主曲輪の茶畑が耕作放棄されて茶藪と化している。こうなると進むことも出来ず、見ることもできない。牧之原台地全体が大きな茶園のようなものである。近年、後継者不足と高齢化のためであろうか耕作放棄された茶畑が目に付くようになり、色々な意味での景観を損ないつつある。 |
![]() ▲耕作放棄された主曲輪。手前の茶畑は二の曲輪。 |
![]() ▲主曲輪の東側一段低くなっている腰曲輪。ここも茶藪となっている。 |
![]() ▲来年は茶藪が背丈以上に伸びて視界を遮ることは間違いない。 |
![]() ▲主曲輪北側の二の曲輪。個人宅が建っている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年5月13日 |
主要参考資料 | 「静岡県の城跡」他 |