(さがらしやかた)
牧之原市大沢
▲相良氏館は平安後期に荘司として土着した相良氏の館跡で、
八十年ほど住した後に九州人吉へその本拠地を移した。
(写真・館跡に立つ史跡標柱)
遠州相良から九州人吉へ
牧之原市相良で萩間川は駿河湾に河口を開いている。この川の西岸に相良城跡があり、東岸に相良氏館跡がある。大江いのち山防災公園の北側の草地に史跡であることを示す標柱が立てられている。 相良氏が苗字の地として当地に居館を定めたのは藤原上総介周頼(かねより)である。天永三年(1112)に相良荘司として来住、以後五代八十有余年にわたり当地を支配した。 鎌倉時代の建久四年(1193)、相良氏五代頼景が肥後国球磨郡多良木(熊本県球磨郡多良木町)の地頭となって移った。その五年後の建久九年(1198)、六代相良長頼が球磨郡人吉荘(熊本県人吉市)への下向を命ぜられ、元久二年(1205)には当地の地頭職となっている。この長頼の代で本拠地を相良から人吉(人吉城)へ移したことになる。以後、戦国期には戦国大名として、江戸期には人吉藩二万二千石の外様大名として明治に至った。 相良長頼が九州へ移った後、相良には二人の弟が残ったらしい。頼景次男の四郎宗頼と四男六郎頼忠である。長頼、宗頼、頼忠の三兄弟は承久の乱(1221)の際には幕軍北条時房の麾下で参戦、宇治川の戦いなどで活躍した。この時の戦功で宗頼は遠江国内田(掛川市内田)に所領を得て内田氏を名乗ったとされる。 弘安元年(1278)には相良の地は上杉憲藤の所領となっていることが平田寺の古文書によってあきらかであり、この頃には相良の地から相良氏は完全に去ったものと思われる。 現在、館跡の地を訪れても標柱一本が立つのみで遺構らしきものは何もない。城館資料によれば畑面より1.5m小高い河岸微高地であり、江戸期に採土されたために遺構は消滅したとある。 |
![]() ▲「相良館跡」の標柱。 |
![]() ▲標柱の上空には初夏の雲が輝いていた。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2025年5月13日 |
主要参考資料 | 「静岡県の中世城館跡」 |
↑ | 「遠江武将物語」他 |