
(よろいがふちこせんじょう)
西尾市吉良町岡山下り松

▲鎧ヶ淵古戦場は永禄四年(1561)に吉良義昭が対立する
松平元康の家臣松平好景を討取り勝利した戦いの戦場である。
(写真・古戦場跡の史跡碑)
吉良義昭の計略
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吉良町岡山の丘陵東端に背撫(せなで)山という字があり、吉良町瀬戸の西北端に寄名(きな)山という字がある。両山ともにかつては山塊であったが、現在ではその多くが削り取られて平坦な工場地帯となっている。この両山の間は戦国当時、岡崎への街道が通っており、すぐ脇は深い沼地と池で淵となっていたという。「淵」とは水深が深く、流れが淀んでいるような場所をいう。 永禄三年(1560)、桶狭間合戦で駿河、遠江、三河を統べる今川義元が織田信長に討取られた。三河岡崎城に自立した松平元康(徳川家康)は信長と和睦して三河平定を推し進めようと、今川方の国衆らとの対立を深めていた。 永禄四年(1561)四月十五日、今川方に属し続けて松平方と対立、不利な状況となりつつあった東条城の吉良義昭(よしあきら)はこの日、家臣の富永伴五郎忠元や大河内金兵衛秀綱らの軍勢を進発させて松平方酒井将監忠尚の上野城(豊田市上郷町)を攻めさせた。これに対して岡崎城の松平元康(徳川家康)は中島城(岡崎市中島町)主松平伊忠(これただ)を上野城の救援に向かわせた。 これは吉良義昭の計略で、手薄となった中島城を本隊を率いて襲ったのである。これを知った松平伊忠の父で深溝城(幸田町)主の松平好景(よしかげ)は直ちに五十騎を率いて中島城へ駆け付けて吉良勢を追い払った。これも義昭の計略で、わざと兵を引き上げたとされる。 松平好景は吉良勢の退散を見て「勝機は我にあり、このまま東条城を乗っ取り、義昭を討取らん」と吉良勢を追撃して疾駆、善明堤(市内善明町)に達した。そこから街道は山と山の狭間を南に抜けているが、谷深く、藍色の水をたたえた深い池の淵の隘路であった。好景は「ここを抜ければ東条城は間近ぞ」と谷間の隘路へ踏み込んだ。 松平好景が踏み込んだ途端に山上から吉良義昭の伏兵六十余騎が横並びに駆け下りた。すると逃げるために背を向けていた吉良本隊が反転して逆襲に移ったのである。「しまった」好景は深追いに気付き引き返そうと馬首を返そうとしたが、上野城へ向かったはずの富永伴五郎忠元の軍勢が好景の退路を遮断していたのである。富永らの上野城攻めは見せかけのものであったと思われる。 三方から攻め立てられた好景勢は「三州西尾鶴ヶ城由来記」にあるように「青浪名だたる深池へ真逆に追立てられ、或はつき伏せ、切り伏せられ、水におぼれ、或は高巌の岩に落ち重なって死する者多かりけり。青浪さながら赤に染めして鎧は谷に満々しき」と多くの軍兵がここで討死した。 好景は十騎ほどで斬り抜けて中島城へ逃れようとしたが吉良勢の追撃は激しく、下永良(市内下永良町鎮守)に追い詰められて吉良方の尾崎修理の矢に当たり、山岡薬医に首を討たれたという。好景四十四歳。好景の兄弟四人も討死、さらに家臣板倉好重とその一族二十一人も討死したという。 善明堤の戦いと呼ばれたこの合戦であったが、後に淵の底に沈んた将兵の鎧や武具が度々引き上げられたことから当地を鎧ヶ淵古戦場と呼ぶようになったとされる。 戦国の世も終わり、江戸時代には吉良上野介義央(よしひさ)がこの古戦場跡に堤防を築いて水害を防ぎ、田園地帯を守った。明治になると道路の整備が進み、現在では岡崎方面への県道が通り、狭隘な山谷地も平坦な工場地帯へと変貌している。 ともあれ、この戦いは吉良義昭の完勝に終わったが、松平元康とて黙って爪を噛んでいたわけではない。着々と吉良攻略の準備を進め、この年の九月には東条城の周辺に砦を築いて兵を配し、総攻撃を開始した。この時の勝敗を決した戦いを藤波畷の合戦という。 |
![]() ▲古戦場碑と県道42号。 |
![]() ▲古戦場跡の説明板。 |
![]() ▲「鎧掛松及蛇枕石之碑」。鎧掛松と蛇枕石の由来が記されている。明治四十年(1907)岡崎道路改修により両者共に伐採或いは埋められて位置も分からなくなってしまった。そこで遺跡の隠滅を惜しみ、この碑を建て後世に伝えようとした。平成四年(1992)の道路整備により現在地に移された。 |
![]() ▲鎧掛松と蛇枕石の説明板。鎧掛松は松平好景の部将某が奮戦の末に鎧をこの樹に掛けて屠腹した所とある。蛇枕石(じゃまくらいし)は干ばつの時にこの石に雨を祈れば必ず験があったという。 |
![]() ▲古戦場跡には貞享三年(1686)に吉良上野介義央が築いた堤防「黄金堤」も残されている。 |
![]() ▲堤防の上。 |
![]() ▲松平好景戦死之地入口の碑。 |
![]() ▲好景戦死の地に建てられた石碑。 |
![]() ▲この好景墓碑は「継植松碑銘」と彫られている。 |
![]() ▲板倉好重の墓塔。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2026年1月8日 |
| 主要参考資料 | 「吉良の人物史」 |
| ↑ | 「室場・寺院風土記」他 |