
(かみながらじょう)
西尾市上永良町宮東

▲上永良城は豊臣秀吉子飼いの武将として知られる加藤嘉明の生誕地である。
(写真・上永良神明社境内に建つ生誕地碑)
加藤嘉明生誕の地
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西尾市の北東部、上永良町の広田川西岸に上永良神明社があり、ここに戦国時代の武将「加藤嘉明生誕地」の石碑が建っている。いかにも加藤家の城館がここにあって嘉明(よしあき)がここで誕生したものと思われがちであるが、実際は城館の遺構もなく、その規模も不詳ということになっている。生誕地の石碑も昭和初期に愛知県によって建てられたものであるが、当初は町内の別の場所にあったということである。 加藤嘉明は永禄六年(1563)に松平元康に仕えていた加藤教明の長男として生まれた。この父子が加藤と名乗るのはもっと後のことで、教明は岸三之丞といった。そして嘉明は孫六を通称とした。 嘉明が生まれたこの年、西三河では一向一揆が勃発して松平元康との戦いが続いていた。父の岸三之丞は一揆方に付いて元康に背いた。翌年、一揆方が敗れると岸父子は流浪の身となり、三之丞は上洛して足利義昭に仕えたらしい。織田信長によって義昭が追放されると三之丞は長浜城主羽柴秀吉に仕えて矢島(滋賀県守山市)に三百石を与えられた。 その後、孫六が秀吉の家臣加藤景泰に見出されて秀吉に推挙され、景泰の猶子として斯波秀勝の小姓に取り立てられた。この時をもって三之丞と孫六は加藤氏を名乗ることになったとされる。三之丞のその後のことは分からない。 加藤孫六嘉明は天正四年(1576)の播磨攻めに従軍して秀吉の直臣となり、天正六年(1578)の三木城攻めで初陣した。十五歳であった。天正十年(1582)の賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人に数えられる活躍をして三千石を与えられた。天正十三年(1585)、秀吉が関白となり、嘉明は従五位下左馬助に任じられた。以後、孫六改め左馬助を称する。 天正十四年(1586)四国攻めの戦功により淡路国に一万五千石を拝領した。淡路水軍を傘下におさめた嘉明は水軍の将としても活躍してゆくことになる。九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役で水軍を率いて活躍した。 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦では家康に従い、戦後は伊予松山城二十万石の大名となった。寛永四年(1627)、会津若松城四十三万石に転封となる。寛永八年(1631)、嘉明、江戸屋敷にて病没、享年六十九歳であった。 嘉明の後、嫡男明成が会津藩を継いだが、圧政により農民の逃散が相次ぎ、寛永二十年(1643)に改易となった。ただし、父嘉明の功績により家の存続は許され、孫の明友が石見国吉永一万石が与えられた。天和二年(1682)、近江国水口城二万石に加増転封されて明治に至った。 それにしても、伊予松山藩主時代の加藤嘉明が寛永二年(1625)にこの神社の本殿再建にあたり、自身出身の地であるため特に力を注いだといわれており、かつて加藤家の城館がこの辺にあったことは確かなのであろう。 |
![]() ▲上永良神明社の入口。 |
![]() ▲神明社の社殿。 |
![]() ▲社殿前の大椎の大木。昭和七年(1932)に国の天然記念物に指定された。樹齢は千年と推定されている。 |
![]() ▲加藤嘉明は神職らに「加藤」の姓を与えたといわれる。 |
![]() ▲境内の東側隅に生誕地碑が建てられている。 |
![]() ▲愛知県によって建てられた「加藤嘉明生誕地」の碑。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2026年1月27日 |
| 主要参考資料 | 「愛知県中世城館跡調査報告」他 |