
(うがいけじょう)
西尾市鵜ヶ池町上屋敷

▲鵜ヶ池城は永禄四年(1561)に富永忠安が家康から与えられた屋敷城とされている。
(写真・城跡には史跡碑が建っている)
富永忠安の隠居城
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西尾市鵜ヶ池(うがいけ)町の字上屋敷に鵜ヶ池城が戦国期に存在した。この城はかつて室城(西尾市室町)主であった富永右京太夫忠安の隠居城であったとされる。城と言っても曲輪を備えたものではなく土塁で囲んだ程度の館(屋敷)城であったろう。しかし、近年の研究では居館跡に隣接して富永氏の菩提寺である妙満寺跡があることで吉良氏家臣に共通する城館跡であるとされ、単なる隠居屋敷ではなく室城や岡山城と共に従来から富永氏支配下の城であったとする見方が提言されている。 富永忠安は東条吉良氏の家臣で天文五年(1536)に松平広忠を室城に迎えて匿ったという経歴を残している。その後、忠安は子の忠元に室城主を譲り、第一線から身を引いた。 忠元は東条城主吉良義昭に仕えて永禄四年(1561)の藤波畷の戦いで壮絶な討死を果たしてしまった。 通説では戦いの後に家康が子を亡くした忠安に配慮して鵜ヶ池の地を与えたとされている。家康にとって忠安は父広忠を援けてくれた恩人なのである。 永禄八年(1565)、家康は狩りの途中で鵜ヶ池の忠安のもとを訪ね、仕官をすすめたという。この時に忠安は仕官は固辞して「少しばかりの土地を賜り、先祖の供養をしとうござる」と申し出た。家康はその志に感じて寺を建てる土地と寺領を安堵したとされる。忠安は屋敷の隣に妙満寺を建立した。 忠安は翌年の永禄九年(1566)に没した。別説に忠安は天文八年(1539)の荒川義広と吉良持広が荒川山で戦った際に討死したとも言われている。そうだとすると永禄四年(1561)以降の家康と忠安の関係は無かったことになる。 現在、城跡は住宅地となり、遺構は無いとされる。目印として「史跡」と彫られた石標が建てられており、かつて城のあったことが伝えられている。 |
![]() ▲「史跡」の石標。側面に「東 鵜ヶ池城跡」とある。 |
![]() ▲反対側面には「西 妙満寺跡」とあり、両史跡の境目にこの石標が建てられている。 |
![]() ▲東側から城跡を望見。 |
![]() ▲北側から城跡を望見。現在は一般住宅地となっている。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2026年1月27日 |
| 主要参考資料 | 「定本・西三河の城」 |
| ↑ | 「西尾の人物誌」他 |