荒川城
(あらかわじょう)

西尾市八ツ面町市場


▲荒川城は南北朝期に足利氏の分流荒川氏の城であったが
戦国期には吉良氏一族の荒川甲斐守義広の城となった。
(写真・字土井に残る土塁跡)

戦国波乱荒川甲斐守

西尾市立八ツ面(やつおもて)小学校とその周辺地域が戦国期に荒川城(八ツ面古城とも)のあったところである。小学校の東側字土井には土塁の一部が残存している。

荒川城の城主荒川氏は足利氏初代義康の曽孫義宗が貞和三年(1347)三河戸ヶ崎(西尾市戸ヶ崎)に土着して戸ヶ崎氏を名乗り、その子満氏が当地荒川に分かれて荒川氏を名乗ったことにはじまる。時代は南北朝時代である。荒川満氏そして頼直、詮頼と続いた。詮頼は丹後国や石見国の守護に任じられている。その後、詮長、詮宣と続き、室町時代には幕府奉公衆などに名を残しているが、いつまで荒川の地に居たのかは分からない。

大永七年(1527)頃、東条城主吉良持広の弟義広が荒川氏の旧跡に居して荒川甲斐守を名乗った。満氏系の荒川氏とは全く関係はない。

享禄二年(1529)、荒川義広は三河を席巻した松平清康に従ったが、その後は今川氏の勢力伸長によって東条吉良氏と共にその麾下に加わった。

永禄三年(1560)、桶狭間合戦後に岡崎城に自立した松平元康は織田信長と結び、今川方東条城の吉良義昭と対立した。

この時、荒川義広は吉良義昭と不和となり、元康方に寝返ったのである。不和の原因は分からないが、義昭が南北朝期以来抗争を続けてきた西条吉良氏の出身であることが気に入らなかったのかも知れない。

荒川義広はまず、元康の家臣酒井正親を荒川城に迎え入れた。そして今川方の牧野貞成の守る西条城(西尾城)を乗っ取り、酒井正親が城を預かり後に城主となった。そこで元康は義広に異母妹の市場姫を嫁がせて、その功に報いた。

永禄四年(1561)、元康は藤波畷の戦いで吉良勢を破り、東条城の吉良義昭を降伏させた。

ところが、永禄六年(1563)に三河一向一揆が起こると、吉良義昭とともに荒川義広は一揆方に加担して元康改め家康に反抗した。なぜ義広は家康に反抗したのであろうか。義広としては市場姫よりも仇敵であった西条城が欲しかったのかもしれない。

翌年、東条城とともに荒川城も松平勢によって落城した。戦後、義広は死罪を免じられて義広の家臣中神藤左衛門利輝の屋敷(西尾市寄近町)に謹慎となり、永禄九年(1566)に病死した。なお、落城後の義広の行方や没年には諸説あり、河内へ出奔して病死したとも、また近江六角氏を頼り、美濃・近江境にて討死したとも伝えられている。


▲荒川城跡とされる八ツ面小学校。

▲小学校の東側の字土井に残る土塁跡。

▲土塁跡の一部。

▲土塁の一部。荒川城は複数の屋敷地によって構成されていたとされる。

▲永禄五年(1562)、荒川義広開基の真成寺。

▲真成寺本堂。境内に荒川義広の墓塔がある。

----備考---- 
訪問年月日 2026年1月27日
 主要参考資料 「定本・西三河の城」
「西尾の人物誌」他

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