
(よねづじょう)
西尾市米津町蔵屋敷

▲米津城は徳川家臣米津氏の根拠地となった城である。
(写真・字蔵屋敷の高台)
徳川譜代の家臣米津氏の城
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西尾市内矢作川北岸の米津町の字蔵屋敷が米津城の城跡となっている。そして米津城築城の由来が近くの米津神社の由緒書きに「伝説によると、明応年間(1500年頃)知多の大野領主米津道寿が、その子、道膳と共に、朝鮮丸、大野丸など五隻に三百の兵を率いて中根城を占領し、ここから南方に土地を拓き、米津村を造った。」と記されている。いかにも戦国の風雲児さながらの物語であるが、実際はどうだったのだろうか。興味をそそられるのは私だけではないはずである。 米津神社の由緒書きは江戸幕府編纂で天保十二年(1841)に完成した「朝野旧聞褒稿」によるものであろうと思われる。一方で、これも幕府の編纂で文化九年(1812)完成の「寛政重修諸家譜」では未勘(=不詳、未確認)としながらも「もとは清和源氏にして三河郡司米津太郎時済十一代の孫左馬助義道尾張国の住人古渡和泉守正忠が養子となり、氏を藤原にあらため、正重と称す。その男右馬助正種尾張国をさりて三河国にうつる。これ勝政が父なりといふ」とあり、知多半島から来攻したことなどは記されていない。ちなみに同書では米津を「よねきづ」と訓じている。 米津氏にかぎらず諸家の多くは、その先祖に関しては曖昧で不詳あるいは幾つもの伝承が伝えられていたり、作為的なものまであるのが通例であろう。米津氏の起源に関しても幾つかの説があり、知多来攻説や尾張帰還説もその中のひとつである。 米津氏の先祖に関する労著「米津家のルーツを尋ねる」(米津正治著)を参考に米津城築城に至る経緯を追ってみたい。 米津氏と松平(徳川)氏の関係で最初に登場するのが米津右馬助正種である。正種は長禄三年(1459)高橋村(岡崎市高橋町)の生まれで、延徳三年(1491)三十三歳の時、安城にて四代松平親忠に仕え、井田野の戦いで戦功をあげ、矢作村(岡崎市矢作町)に領地を得た。五代松平長親の時、永正三年(1506)の今川勢による安城来攻を撃退した際に正種も奮戦して米津村を拝領した。長親、安城城南の海岸防備の為に米津に築城することを正種に命じた。正種、築城した米津城に移る。その後、六代信忠に仕え、天文十一年(1542)八十三歳にて没。 正種の子左馬助勝政、延徳元年(1489)矢作村に生まれ、松平信忠、清康に仕える。享禄二年(1529)勝政は清康に従い今橋城(吉田城)の攻略、翌年の小島城(西尾市小島町)攻め、天文四年(1535)と九年(1540)には織田信光、織田信秀との戦いに参戦、戦功あり。永禄十二年(1569)八十歳にて没。 これでいくと米津城は永正三年(1506)に米津正種が松平長親の命を受けて築かれたということになる。時期的には知多来攻説も同時期である。米津道寿こと勝政が中根村を攻め落として米津村を拓き、城を築いたとする説をとる書誌が多いのも事実である。この場合、勝政は享禄三年(1530)の小島城攻めに際して松平清康の陣に参じてその先陣をつとめ、以後は松平家臣として戦功を重ねたとされる。 米津勝政には藤蔵(とうぞう)常春と小太夫政信の二子があった。常春・政信ともに家康のもとで戦功を重ねた。常春は米津藤蔵入道浄心の名で家康十六将のひとりに数えられた。家督は政信の系によって継がれ、政信次男康勝の子孫は千七百石の旗本として続き、また四男田政(たまさ)の子田盛(たもり)は武蔵国久喜一万二千石の大名となっている。米津城と米津の地との関係は康勝、田政の代で無くなっている。 現在、城跡の遺構は無く、字丸之内は圃場整備によって農耕地に改変され、屋敷があったであろう字蔵屋敷は宅地化してしまっている。ただ、字蔵屋敷の地形が高台となっており、かつて城のあったことを伝えているのみである。 |
![]() ▲手前の耕作地帯は字丸之内、右側高台の住宅地は字蔵屋敷。 |
![]() ▲米津神社。米津氏が城を築いた時に城中に津島の神を招いて「天王社」を創立、守護神としたという。 |
![]() ▲慶長九年(1604)頃、度重なる洪水により現在地に移った。 |
![]() ▲由緒書き。知多来攻説で始まっている。 |
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| 訪問年月日 | 2026年2月19日 |
| 主要参考資料 | 「西尾の人物誌」 |
| ↑ | 「米津家のルーツを尋ねる」他 |