
(おかやまじんや)
西尾市吉良町岡山殿町

▲岡山陣屋は再興吉良氏の屋敷を三千二百石の陣屋としたものである。
(写真・史跡岡山陣屋跡)
高家吉良氏の陣屋
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吉良町岡山の字殿町の道路脇の一画に岡山陣屋跡が史跡として残されている。殿町というのは吉良の殿様の屋敷があったということなのだろうか。遺構と言えるものは無いが、模擬の陣屋門が建てられていてそれらしい雰囲気を出している。 名門吉良氏は今川氏背いた義安が弘治元年(1555)に捕えられて駿河国薮田(藤枝市)幽閉され、そこで亡くなった。その後を継いだ義昭も松平元康(徳川家康)との抗争に敗れて敗走、三河から姿を消した。吉良氏の断絶である。しかし、義安の幽閉先で嫡男義定が生まれていた。 永禄十二年(1569)、義安の妻俊継尼は幼い義定を連れて薮田から吉良の地に戻り、椿屋敷に住した。松平清康の娘で家康の叔母という関係から松平家の忠臣として知られる鳥居伊賀守忠吉が岡山に隠居しており、何らかの支援があったものと思われている。とはいえ、生活は苦しかったに違いない。 天正七年(1579)、家康は鷹狩に吉良を訪れた際に俊継尼と義定に対面した。この時に俊継尼に食禄二百石、義定に鳥羽(西尾市鳥羽町)三百石を給した。俊継尼と義定はこれを機に吉良家再興を果たすことになる。義定は家康に出仕して岡山に屋敷を構えた。 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦には義定と嫡男義弥(よしみつ/十五歳)が参陣した。戦後、吉良本領三千石が義弥に与えられた。岡山、横須賀、饗庭、小山田、宮迫、乙川の六ヶ村と鳥羽村で計三千二百石となり、岡山の屋敷は岡山陣屋として所領支配の役所となった。また所領南部の乙川村や鳥羽村には出先機関として姫山陣屋が設けられた。 慶長十六年(1611)には義弥が歳首の賀使として上洛参内しており、高家としての吉良家がはじまった。以後、吉良家は朝廷と幕府の間の交渉や使者の役目を果たして行くことになる。 寛永二十年(1643)義弥没して嫡男義冬が継いだ。幕府は上野国緑野郡白石村(群馬県藤岡市)他千石を義冬に加増した。 寛文八年(1668)若狭守義冬没して嫡男上野介義央(よしひさ)が継ぐ。義弥以来、高家旗本として江戸住いであったが、延宝五年(1677)に京都の用務を終えて江戸へ戻る際に義央は初めて吉良の領地を訪れた。 そして貞享三年(1686)に義央は背撫(せだて)山と寄名(きな)山の端を利用して堤防を築いた(吉良町岡山下り松)。これは増水の度に吉良の新田地帯が水害に見舞われていたのを防ぐためのもので、下流八千石の田を水害から救ったと言われている。工事には領内の老若男女こぞって参加し、一晩で完成したと伝えられている。隣接の西尾藩はこの工事に反対したが、義央は決壊したら二度と築堤はしないと誠意を尽くして約束したという(現地説明板)。後に人々は義央の善政を讃えて、この堤防を「黄金(こがね)堤」と呼んだ。 元禄十四年(1701)三月、義央は江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩に斬りつけられる。義央は隠居して外孫で養子の義周に高家職を譲った。そして翌年(1702)十二月、浅野家旧臣らに江戸本所の屋敷を襲われて首を討たれてしまうのである。赤穂浪士の討入りである。この討入りの際に、義周も屋敷内で奮戦したが重傷を負っている。元禄十六年(1703)二月、義周は領地召し上げ、諏訪へ配流となった。宝永三年(1706)一月、配流先にて病没、享年二十一歳であった。吉良氏二度目の断絶である。 召し上げとなった吉良領は宝永二年(1705)に三千石が旗本津田正房に引き継がれた。陣屋も引き続き岡山陣屋が明治にいたるまで津田氏によって利用され続けた。 現在、陣屋跡には「陣屋の椿」と呼ばれる椿の木が門脇にある。門をくぐると馬上姿の吉良義央の像がある。この義央馬上像は「黄金堤」と華蔵寺前にも建てられている。 |
![]() ▲陣屋跡の説明板。 |
![]() ▲「陣屋の椿」。椿は武家屋敷では一般的に敷地の生垣として、実は灯明の油として利用された。 |
![]() ▲模擬の陣屋門。 |
![]() ▲吉良上野介義央の馬上像。 |
![]() ▲吉良義央の築いた「黄金堤」。ここにも義央の馬上像がある。 |
![]() ▲説明板。 |
![]() ▲堤防は長さ180mで築かれた。 |
![]() ▲堤防の上。 |
![]() ▲高家吉良氏の菩提寺華蔵寺の山門。 |
![]() ▲山門前の駐車場にも義央の馬上像があった。 |
![]() ▲境内の吉良家墓所。 |
![]() ▲御影堂。 |
![]() ▲吉良義安墓。義安は駿河薮田で没した。 |
![]() ▲吉良義定墓。家康に取り立てられ、岡山に屋敷を構えた。 |
![]() ▲吉良義弥墓。高家として三千二百石を拝領。 |
![]() ▲吉良義冬墓。高家二代目、千石加増される。 |
![]() ▲吉良義央墓。赤穂浪士に襲われて落命した。 |
![]() ▲吉良義周墓。諏訪の配流先で没した。 |
![]() ▲吉良公家臣供養塔。背後の石板には赤穂浪士討入り時とその後に死亡した者たちの名が記されている。 |
![]() ▲華蔵寺(けぞうじ)説明板。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2026年1月8日 |
| 主要参考資料 | 「吉良の人物史」他 |