中根城
(なかねじょう)

西尾市南中根町小脇


▲中根城は鳥居伊賀守忠吉を築城者とする伝承があるが詳細は不明である。
(写真・台地端の土取りで残った段丘)

鳥居伊賀守の水運拠点か

西尾市南中根町の朝鮮川北岸に中根城跡がある。城跡と言っても宅地化と昭和30年代の圃場整備による土取りによって遺構は消滅してしまっている。中根城の由来に関してもあまり明確なものはないようだ。

城跡の東北800mほどに天満神社がある。この神社の由緒書きによると「伝説によると此地の城山の城主に鳥居伊賀守忠吉と言う人がいた。此人は清和天皇の後裔に鳥居法眼其の末孫重氏の子、忠氏の子孫であったと言う。此伊賀守忠吉がこの地に来て城を築いたが、常に天満天神を崇敬していたので、天満宮より御分霊を受け、此地天神畑に祀った。これを神社の創立とする。」とある。鳥居伊賀守忠吉が城を築いたとあるが具体的な時期に関しては記載がない。

城跡の東南600mほどに米津神社がある。この神社の由緒書きには「伝説によると、明応年間(1500年頃)知多の大野領主米津道寿が、その子、道膳と共に、朝鮮丸、大野丸など五隻に三百の兵を率いて中根城を占領し、ここから南方に土地を拓き、米津村を造った。」とある。

両由緒とも「伝説によると」で始まっており確かなものではなさそうだが、米津神社の方は江戸幕府編纂で天保十二年(1841)に完成した「朝野旧聞褒稿」によるものであろうと思われる。いかにも戦国時代の荒々しさが伝わり、興味をそそる内容ではある。ただ由緒書きでは「中根城を占領し」とあるが「朝野旧聞褒稿」では「中根と云所に着岸して、船軍に而責取り此所を領す」とあり、城を攻めたとは書いてない(米津城)。

一方、中根城を鳥居伊賀守忠吉が築城したとすると年齢的に推測すると大永年間(1521-28)以降のことではなかったかとなる。そうすると米津氏が中根村を攻め取った後に築城されたことになろうか。いずれにしても鳥居氏、米津氏ともに松平清康以来の松平宗家の家臣である。敵対関係にはない。

鳥居忠吉は松平広忠亡き後、嫡男竹千代(家康)は駿府に人質となり、岡崎城は今川氏の城代がおかれ、松平家臣にとっては忍従の日々が続いていた頃に兵糧や武具を密かに倉に貯え、家康の出陣に備えたことは有名な話である。矢作川の水運を利用して蓄財したとも言われており、その拠点のひとつとして中根村に何らかの施設が築かれたとしてもおかしくはない。

「定本・西三河の城」には「かつて碧海台地は南へ突き出た先端の崖上で藪になっていた」とある。圃場整備前は朝鮮川付近まで舌状台地が迫っており崖になっていたようだが、現在では削り取られて田畑となり、わずかに残された段丘が城跡の名残りを留めているに過ぎない。


▲残された城跡の段丘端。

▲城跡から米津城を望見。

----備考---- 
訪問年月日 2026年2月19日
 主要参考資料 「愛知県中世城館跡調査報告」
「定本・西三河の城」他

トップページへ三河国史跡一覧へ