
(ながなわじょう)
西尾市長縄町鍵島

▲長縄城は寺津大河内氏の分家の城である。大河内小見が
松平清康の遺体を持ち帰り、当地で仮埋葬したことで知られる。
(写真・城跡に建つ稲荷神社)
清康を仮葬した大河内小見
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西尾市長縄町字鍵島に長縄城があったと「愛知県中世城館跡調査報告」にある。この長縄城は寺津城主大河内氏一族の城跡で、城主の名に大河内小見と記されている。 長縄城の大河内氏は初代顕綱の次男貞顕が分家してその祖となった。この長縄大河内氏に関して系譜は伝えられているものの個々の事歴についてはほとんど分からないようである。ただ、十三代基高に関しては有名な話が伝えられている。 大河内善左衛門(喜平)基高、剃髪して小見(しょうけん又こけん)と号した。東条城主吉良義昭に属し、しばしば戦功ありと伝えられている。生まれは永正十二年(1515)である。 天文四年(1535)基高二十歳の時、松平清康の尾張進攻に従軍して守山城攻めに加わった。ところが守山城攻めの陣で清康が家臣に斬られて急死してしまったのである。この事件で攻城の軍勢は総崩れとなり、三河へ撤収してしまうことになる。 この時、清康の遺体を運び出したのが大河内基高で、領地の長縄村で荼毘に伏して観音寺に仮埋葬し、そして清康の妹矢田姫が本寺の養寿寺(下矢田町)で焼香したと「西尾市史(長縄村大河内由来略記)」にある。 寛政七年(1795)に長縄村の藪から五輪塔が発見され、清康公と刻銘があったので西尾藩と江戸幕府へ届け出された。清康の墓は大樹寺(岡崎市鴫田町)と大林寺(岡崎市魚町)にあるので長縄観音寺の墓はあくまで仮葬地ということなのであろう。 その後、大河内小見基高は子の善一郎政綱と大河内本家(寺津城)の大河内秀綱らとともに吉良義昭に仕え、永禄四年(1561)九月には松平元康(家康)との合戦に備えて東条城へ入った。東条城の吉良方の軍勢は城を打って出、松平勢と藤波畷にて激闘のすえ大将格の富永伴五郎忠元を討取られて惨敗した。 この戦いで大河内勢も城を打って出、政綱は敵の大津伊織を討取る手柄を挙げたが小見基高は討死してしまった。この時、富永伴五郎忠元の弟で僧の徳玄も戦に加わり討死している。後にこの二人の討死の地(駮馬山・東条城の東側)には兵道塚・徳玄塚の碑が建てられた。現在では観音寺境内に移されている。 戦後、政綱は家康に召し出されて仕えることとなり、大久保忠世の麾下に属して各地の戦いで活躍、戦功を重ねた。晩年は紀州藩主徳川頼宣の守役となり、寛永四年(1627)に没した。嫡男政定は足立氏を継ぎ、次男政勝は二千石取りの旗本として続いた。 ちなみに小見基高の没年に関しては慶長十七年(1612)九十八歳で没したとする説もあることを付記しておく。 長縄城の確たる位置や規模の詳細はよく分からないが、愛知中世城郭研究会刊の「愛城研報告第20号」に長縄城に関する調査報告が収録されており、それによると稲荷神社や公民館の辺りを南限・東限とし、北は馬場道と呼ばれる道路北側の住宅地とし、西は用水路の辺りまでとしている。いずれにせよ、城域はすべて宅地化して遺構はない。 |
![]() ▲稲荷神社と公民館(右隣)。 |
![]() ▲観音寺の「松平清康公仮葬地」の碑。大正五年(1916)愛知県により建てられた。 |
![]() ▲石碑裏の「松平清康公の墓」。 |
![]() ▲説明板。 |
![]() ▲説明板。 |
![]() ▲観音寺の本堂。 |
![]() ▲兵道塚・徳玄塚の碑。兵道は大河内小見基高のことである。 |
![]() ▲「永禄四年九月松平元康公と東条吉良氏との戦いに東条方に味方し東条城落城のとき駮馬山にて討死しその地に葬られて兵道塚と呼ばれた 昭和五十九年九月吉良土地改良転作促進対策事業ほ場整備のため吉良町の要請により駮馬より此の地に移す 昭和六十年春彼岸」と兵道塚と移転の由来が記されている。 |
| ----備考---- | |
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| 訪問年月日 | 2026年2月19日 |
| 主要参考資料 | 「西尾の人物誌」 |
| ↑ | 「愛城研報告第20号」他 |