金丸山砦
(かなまるやまとりで)

掛川市中央高町


▲ 逆川越しに砦跡を望見。高台の住宅地が砦跡である。現在では砦跡全域が宅地化され、
遺構は消滅している。ただ、高台であることのみがかつて砦であった名残りをとどめている。

掛川城攻防の
       激戦地

 「掛川誌稿」には金丸氏の故居であったと記されているが、この金丸氏に関しては一切不明である。朝比奈氏が掛川に築城する以前の土豪であったのかもしれない。

 ここは掛川城の西約1.5`の丘陵地で、永禄十一年(1568)十二月に徳川家康が掛川城を攻囲するために築いた砦群のひとつである。当時、掛川城には城主朝比奈泰朝を頼って逃げ込んだ今川氏真がいた。駿府を武田信玄によって追われたのである。掛川城はまさに今川最後の牙城となっていたのである。

 ここ金丸山砦には久野三郎右衛門宗能(久野城主)とその一党が陣を構えた。宗能は家康の遠江進攻に際して、はじめは籠城の構えを見せていたが家康の説得に応じて徳川に従うことにしたのであった。

 翌十二年一月十八日、掛川城から出撃した日根野備中守弘就と同弥次右衛門の兄弟が率いる今川勢が金丸山砦に攻め掛かった。日根野兄弟は今川方髄一の猛将として恐れられていた。

 日根野勢の激しい攻撃にさらされた久野宗能、同宗憲、本間長季らの久野衆は支えきれずに砦から追われてしまった。味方の徳川勢が駆け付けて砦をめぐる戦いは激しさを増し、日根野勢をどうにか撃退することができたが、金丸山砦は廃墟と化してしまった。
 「武徳編年集成」にはこの時の戦いを記した後に、
「神君久野が敗軍を怒らせ玉ふ」
 と記している。神君とは家康のことである。

 この二日後、久野城内では徳川一辺倒の宗能を排斥して今川か武田に通じようとする謀議が発覚した。宗能はこれを家康に報じて大久保忠世らの加勢を得てこれを鎮圧した。金丸山砦の戦いで家康の不興をかったとはいえ宗能の心に迷いはなかった。

 宗能率いる久野衆が次に陣を構えることになったのは岡津砦であった。いまだ徳川に従わぬ各和城に備えたのである。

 二月に入ると各和城の攻撃が始まった。先手となった久野衆は金丸山砦の汚名を挽回すべく遮二無二戦った。戦闘は二日間にわたり各和城は落城した。

 その後も久野氏は徳川家への忠を貫き続けた。江戸期は伊勢田丸一万石の城主として代々続いて明治を迎えた。

----備考----
画像の撮影時期*2006/11

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