(みずまきじょう)
浜松市天竜区佐久間町中部
▲ 城址は山上にあったとも、また山麓の宥泉寺の地がそれであるともいわれているが、
両説ともに確定的な遺構が確認されておらず、特定されていないのが現状である。
下克上、
戦国の習いなり
戦国の世、北遠の国人領主奥山能登守定之に四人の男子があった。 嫡男民部少輔定益は本城高根城(久頭合)を継ぎ、次男美濃守定茂は水巻城(中部)、三男加賀守加賀守定吉は若子城(相月)、四男兵部丞定友は小川城(大井)にとそれぞれ独立した。 ここ水巻城は天竜川が大きく湾流する中土にあることからこの名がついた。 伝えでは、美濃守定茂は野心強く、小川城と若子城を次々と攻め落し、弟たちとその一族を追い出してしまったとある。そしてついには本城高根城を南信州和田城主遠山氏の力を得て攻め落してしまったのである。まさに、下克上である。 三人の兄弟を排除した定茂は当時最強の軍団を誇る武田氏の傘下に入り、奥山家の安泰を図ろうとしたのであろう。 定茂が兄弟らの城を攻め落したのはいつ頃のことであったろうか。これに関しては諸書錯綜していて断定はできない。おそらくは今川氏の勢力が桶狭間合戦以後減退し、それに代わる武田、徳川両氏の遠江における抗争の時期、つまり永禄年間(1558〜1569)のことであろうと思われる。 定茂は、天正三年(1575)の長篠合戦において武田軍に属して戦っている。合戦の結果は周知の通り織田・徳川連合軍の大勝利で、精強を誇る武田軍団の惨敗であった。定茂もほうほうの体で城へ逃げ帰ったに違いない。 一方の徳川家康はこれを機に北遠を平定すべく兵を繰り出した。 この徳川勢の大将に抜擢されたのは信州浪人の片桐権右兵衛門家正であった。武田軍に追われて北遠に逼塞していたところ、天正二年に徳川家康に仕えることになったのである。家正の兄は後に賤ヶ岳七本槍に数えられ、豊臣秀頼の守役となった片桐且元である。 片桐家正は水巻城の南西方向下川合から押し寄せたが、朝の霧が深く城に近づくこともできなかった。家正は兵をまとめると北東方向の半場という地へ移り、天竜川を船で城近くに押し寄せることにした。 奥山定茂は水巻城の防御手段としてかねてから信州より大量の竹の皮を取り寄せていた。いざという時にこの竹皮を城の周囲に撒いて、攻め手の足を滑らせ、混乱するところを討ち取ろうという算段なのである。定茂は竹皮を城の周囲に撒いて徳川軍の来襲に備えた。 ところが片桐家正率いる徳川勢はこの竹皮に火を放ったのである。たちまち城は火炎に包まれ、定茂は城を捨てて高根城へ退去してしまったのである。敵を欺くつもりが逆手に取られてしまったのである。 天正四年、定茂は一族とともに寂しく北遠の地を離れ、青崩峠から信州へ落ちて行った。 |
----備考---- |
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画像の撮影時期*2004/07 |