(いいのやぐう)
浜松市浜名区引佐町井伊谷
▲ 明治元年、明治天皇の勅令により創立された。宗良親王の初志
貫徹の精神から学問、心願成就、開運の神として信仰されている。
征東将軍宗良親王、
終焉の地
暦応元年(1338)、吉野の後醍醐天皇は南朝回復の一大戦略として義良親王を陸奥に、宗良親王を遠江にそれぞれ派遣して地方における南朝勢力の拡大を図ろうとした。しかし同年九月、伊勢の大湊を出帆した船団は遠州灘沖で台風に遭遇、遭難したり吹き戻されたりして壊滅状態となってしまった。ひとり宗良親王のみが遠州灘の砂浜に打ち上げられ、頼みとしていた井伊道政、高顕父子に迎えられて井伊谷入りを果たしたのであった。 以後、親王は井伊氏に擁されて遠江南朝の旗頭となり、三年にわたって三嶽城、大平城において足利幕府軍との熾烈な戦いに身を投じたのである。天台座主であった親王が還俗したのはいうまでもなく父後醍醐天皇の新政を援けるためであった。 暦応三年夏、井伊氏による戦いも強力な足利幕府軍によってついに平定されてしまう。親王は密かに信濃へと落ち延びた。 その後も越後、越中を転戦、康永二年(1343)再び信濃へ戻り、下伊那郡大河原に拠点を置いてなおも南朝興隆の旗を掲げ続けたのである。 その強靭な意志と精神力は武人としの鑑であるといえよう。 では親王は武骨一辺倒であったかというとそうではない。和歌に長じ、自撰の「季花集」や「新葉和歌集」などを残している。この「新葉和歌集」は北朝方の「新千載集」、「新拾遺集」の撰に外された南朝方歌人の作品を集成したものである。ここにも南北朝の戦いの一端が見えるといえよう。 さて、親王は吉野との往来を繰り返しつつもあくまで信濃大河原城を基盤として維持しながら諏訪から甲斐へ、また駿河の安倍城などへ駒を進めている。 親王の晩年の事跡は未詳で、至徳二年(1385)七十三歳で井伊谷にて薨去と伝えられている。 |
▲井伊谷宮本殿。 |
▲井伊谷宮の背後にある宗良親王の陵墓。 |
▲井伊谷宮由緒。 |
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訪問年月日 | 2004年8月22日 |