(あたかのせき)
県指定史跡
石川県小松市安宅町
▲ 右より富樫泰家、弁慶、源義経の銅像。「智仁勇」は弁慶の知恵、富樫の情、
義経の勇気に例えられ、わが国古来の国民性の美談として伝えられている。
智仁勇、
伝説の舞台
文治元年(1185)三月、平家を壇ノ浦に沈め、意気揚々と京に凱旋した源義経であったが、五月には兄頼朝に勘当され、もはや兄弟の破綻は決定的となった。十一月には北条時政が入京、義経追捕の院宣が発せられ、さらにこれを名目に守護、地頭が諸国に置かれた。世にいう「文治の守護・地頭補任の勅許」である。 このとき、加賀の守護となったのが富樫左衛門泰家であった。歌舞伎「勧進帳」では安宅の関守として登場する。 しばし、伝承の世界を覗いてみよう。文治三年三月、寒風凛冽、松下怒涛踊る当関に山伏に扮装した義経主従十二人が到着した。頼朝の追捕を逃れ、奥州へ向う道中なのである。一行を義経主従とみた富樫泰家は厳しく尋問したが、弁慶は、 「東大寺復興勧進のため諸国を廻りおり候」 と形だけの巻物を広げて勧進帳の空読みをして欺いた。また強力(荷役)姿の義経が咎められようとすると、弁慶は金剛杖をもって義経を打ち据えた。 泰家の目には紛れもなく義経主従であることが見えていたが、弁慶の忠誠心に感動して関の通行を許してしまった。ということである。 また木曾義仲挙兵時(寿永二年五月二日)には城砦が構えられ、平維盛軍を林光明らが迎え撃ったが攻め落されている。その後、倶利伽羅峠で平家軍が敗れた際に一時的に拠ったといわれている。 この安宅城跡および関跡については海岸線の変動などにより二三里沖の海中説などがあるが、現在ではここ二堂山一帯が遺跡として認められている。 |
----備考---- | |
---|---|
訪問年月日 | 2005年8月8日 |
主要参考資料 | 現地説明板・他 |