元弘三年(正慶二年/1333)、隠岐に流されていた後醍醐天皇は随臣千種忠顕と共に配所を脱して伯耆の名和長年に迎えられ、船上山に倒幕の兵を挙げた。楠木正成や新田義貞らの活躍もあって鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は復位して建武の新政が始まったことは周知のことである。船上山の挙兵から京都六波羅攻めにと活躍した千種忠顕は楠木正成、名和長年、結城親光と共に後醍醐天皇の功臣として遇され、「三木一草」と称された。
忠顕は参議右近中将従三位蔵人頭に任ぜられ、三ヵ国の国司職と北条氏旧領十ヵ所が与えられた。この中に三重郡二十四郷の所領が含まれていたのであろう。忠顕自身は三年後の延元元年(建武三年/1336)に足利勢との戦いで討死したが、二男の顕経が南朝に仕えて活躍した。
顕経は正平七年(観応三年/1352)に北畠顕信らと共に京都を制圧して足利義詮を近江に退去させるなど南方として活躍している。正平二十四年(応安二年/1369)、顕経は北畠顕康の命を受け、足利義満の北伊勢攻略に対応して三重郡の守りを固めたことが伝えられている。この時に顕経が禅林寺城(菰野町下村)を築いて拠り、諸城を総轄したとされる。
説明板などによれば顕経がはじめ禅林寺城に拠り、後に千種城を築いて移ったとあるが、一説では忠顕の長男通治の子隆通が弘和元年(永徳元年/1381)に城を築いたと伝えている。いずれにしても南北朝から室町期にかけての千種氏の系譜や事績に関してはあまり明らかではないようである。
その後、千種氏の名が現れるのは禅林寺由緒にあるように千種家五代目城主常陸介治庸(ちよう)である。治庸は応仁の乱(1467)で焼失した禅林寺を文亀三年(1503)に再建した。
この頃から千種氏は北伊勢に勢威を広めたようで、治庸から数代を経た常陸介忠治の時には北勢四十八家を従えたと言われている。
弘治元年(1555)、北伊勢は近江六角義賢の攻撃を受け、六角家臣小倉三河守率いる三千の兵が千種城を攻めた。千種忠治は千種城に籠り、六角の大軍を相手に互角の戦いを展開したと言われ、家臣萩沢備前守に命じて敵の陣する宿野川原を夜襲させてこれを撃退した。六角義賢は忠治に使者を送り、和睦に持ち込んだ。和睦の条件として嫡子に恵まれなかった忠治は六角重臣後藤但馬守賢豊の弟を養子に迎えることになり、六角の配下となった。
ところが忠治に実子が生まれたのである。忠治は実子である又三郎に継がせようとしたが、養子の三郎左衛門忠基が黙っている訳がない。忠治と又三郎は忠基によって千種城を追放されてしまったのである。忠治は縁戚にあった春日部氏の協力を得、千種城を攻撃して奪還したとも、敗れて六角氏のもとに身を寄せたとも言われている。
永禄十一年(1568)の織田信長の伊勢攻略に際し、北伊勢の諸氏は織田家臣滝川一益の配下に属し、千種又三郎もこれに従った。しかし、一益は六角氏と同心しているとの理由で又三郎を自刃させてしまった。この時、忠治は出家隠居の身ということで逃れた。
天正十一年(1583)、北伊勢が織田信雄の支配下に置かれた際に忠治は千種城に戻ることができた。忠治は津城の冨田信濃守知信の甥を養子とし、顕理と名乗らせた。
顕理は織田信雄に仕え、後に豊臣秀吉、そして秀頼に仕えた。慶長二十年(1615)、顕理は大坂夏の陣で戦死、ここに千種氏嫡流は断絶となり、千種城も廃城となったと言われている。
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