(ぎょくせんじ)
国指定史跡
静岡県下田市柿崎
▲ 曹洞宗瑞龍山玉泉寺本堂。
使命に生きる
米国総領事ハリス
安政三年(1856)七月二十一日、日本における米国初代総領事タウンゼント=ハリスを乗せた米海軍軍艦サン=ジャシント号が下田に投錨した。 これより前、嘉永七年(1854)の日米和親条約によって下田の開港と駐在官の赴任が約束されていたのであるが、その翻訳の不手際からハリスの上陸は八月五日に至って実現した。 領事館に指定されたここ玉泉寺に到着したハリスはまず星条旗を高々と掲揚した。 「将来、わが着任の瞬間が悔やまれんことを」 厳格な清教徒であったハリスは、武力や恫喝ではなく誠意と忍耐をもって日米関係を結実させようとしていた。将来、自身の果たした功績が歴史に刻まれるであろうことを確信して。 彼の最大の使命は通商条約の締結であった。そのためには幕府との交渉を一日でもはやく進めなければならなかった。しかし下田の役人の立場も考慮して、時期の来るのを辛抱強く待った。役人達との遅々として進まぬ交渉に失望すること度々で、健康を害することもあったが、冷静さを失うことはなかったという。 その甲斐あって翌年五月二十六日、下田奉行との間に「下田協約」が締結された。これは米側にとって不利であった通貨比率の是正と長崎の追加開港を取り決めたもので、通商条約の地ならし的なものであったのである。 十月、江戸出府の許可がやっと出た。 下田の人々が作ってくれた星条旗を掲げ、天城峠を越え、200マイルの道のりを経てハリスは江戸へ入った。事前交渉を経て十二月七日、ハリスは十三代将軍家定に謁見、大統領の親書を渡した。続いて直ちに条約交渉に入り、翌五年一月に妥結をみた。しかし、朝廷からの勅許が降りず、またもやハリスは待たされることになった。 三月、米艦ミシシッピーが下田に入港。英仏も通商を迫るであろうことを告げてきた。 ハリスは事態の切迫していることを幕府に伝え、条約締結を迫った。 「このままでは英仏の砲火によってこの愛すべき極東の国が滅びてしまう」 この時ばかりは、ハリスは待つことをしなかった。大老井伊直弼も事態の重大さを理解していた。 直弼は朝廷を無視して、独断で通商条約に調印することを決した。 六月十九日、横浜小柴沖に停泊する米艦ポーハタン号において日米修好通商条約及び貿易章程(細則)が調印された。 これに続いて幕府は英仏露との間にも通商条約を調印することになるが、このことが尊皇攘夷の過激派たちに火をつける結果となり、大老井伊直弼は江戸城桜田門外において命を落とすことになる。 いずれにせよ、ハリスはその使命を全うして十二月には公使に昇格、安政六年五月には江戸へ移ることになり、玉泉寺の領事館は閉鎖された。 江戸へ移ってからのハリスは下田時代同様に友好的な態度を崩すことなく、とかく武力に頼ろうとする諸外国の外交団に対して訓戒することもあった。 玉泉寺の境内はそれほど広くはない。というよりごく普通の寺である。山門をくぐるとすぐ右側に「ハリス記念碑」、左側には「日本最初の屠殺場跡」なるものがある。領事館員の食材に牛が供されたものであろう。本堂正面には「牛乳の碑」がある。日本で最初に牛乳が売買されたということである。 寺の付帯施設として「ハリス記念館」があり、貴重な資料、遺品などが展示公開されている。なお、記念館裏手にはロシア人(ディアナ号)の墓があり、本堂左側奥の墓域には五基の米国人(ペリー艦隊)の墓がある。 ハリスにまつわる話しに必ず登場するのが「唐人お吉」の逸話である。下田市内のどの資料館に行っても必ずお吉に関連する展示がある。 実際のところどうだったのだろうか。 支度金二十五両、年手当百二十両で、吉とふくの両人が領事館行きを命ぜられたという。手当金は普通の給仕の十倍ちかくであった。これは、侍妾として仕えろ、ということである。ふくは通訳官のヒュースケンに、吉はハリスにということであった。ヒュースケンはその通りに受け入れたが、厳格な清教徒であるハリスは当然、吉の受け入れを拒否した。ハリスの日記には吉の名は出てこない。五十三歳という年齢もあったであろうが、何よりも使命に生きる、ということに徹した人物であったのであろう。 事実、お吉の領事館通いはわずか三夜で解雇されている。 ただ云えることは、その後のお吉の人生の歯車が変わった回りかたをしていったということは事実であろう。 |
▲1856年(安政3)8月6日午後2時半、旗竿の周りに水兵が輪 形をつくり、ハリスは極東のこの国に最初の領事旗(米国旗)を 掲揚した。 |
▲史跡玉泉寺の説明板。 |
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訪問年月日 | 2003年12月30日 |
主要参考資料 | 現地パンフ等 |