(いしわきじょう)
静岡県焼津市石脇下
▲ 石脇城はおよそ三つの曲輪で構成されている。最高所の一ノ曲輪、一段下がった二ノ曲輪、
そして高低差はないが南側に張り出した外曲輪である。この画像は城址標柱の立つ登城口
から見た城山である。電柱の右側が一ノ曲輪跡の丘であり、左側の丘が外曲輪跡である。
早雲、旗挙げの城
北条早雲が今川家の家督相続問題に決着をつけるため、その足場として築いた城がこの石脇城であったと伝えられている。北条早雲というのは後の名で、この当時は伊勢新九郎盛時といった。 盛時はこれより以前、文明八年(1476)に今川家の後継争いを幕府の名代として調停にあたったという経緯がある。 この争いは、今川家六代当主義忠が遠江の国人横地、勝間田の両氏を見付城に滅ぼし、その帰陣の途次、塩買坂で両氏の残党の矢を受けて討死してしまったことに端を発する。嫡子龍王丸はまだ幼かったために(六歳といわれる)義忠の従兄弟で小鹿氏を名乗る範満を後継者に推そうとする一派とあくまで嫡子龍王丸を推す一派とに今川家中が分かれてしまったのである。しかも関東の扇谷上杉氏が範満を支援して介入する動きを示していたのである。 実は盛時の妹北川殿は義忠の正室で、龍王丸の母なのである。したがって盛時の立場は今川家中においても一目置かれる存在であったと思われる。 ともかく盛時は両派の間に立ち、龍王丸成人までは範満が家督を代行するということで争いをまとめたのであった。 その後、盛時は京に戻って九代将軍足利義尚の申次衆になった。 しかし、駿河の情勢は再び盛時を必要としてきた。龍王丸が成人(十五歳)して数年経ってもなお範満が家督を返す気配を見せないのである。返すどころか龍王丸と北川殿は命の危険すら感じていたのではないだろうか。当然、盛時のもとへそうした危機的な状況が北川殿から知らされていたはずである。 長享元年(1487)、盛時は意を決して駿河下向を将軍に願い出て許された。 「範満を討伐するほかなし」 盛時はこのとき、自身の運命がその後どのように変わってゆくことになるのか、知るはずもなかったであろう。 駿河に下った盛時はまず、ここ石脇の地に城を築くことにしたようである。旗挙げのための拠点となる城である。それがこの石脇城であると見られている。 この年の十一月、築城工事の最中であったと思われるが、 「時を移さず、範満を除くべし」 と盛時は龍王丸派の将士を丸子城(龍王丸と北川殿が居城としていた)に結集して駿府の範満の屋敷を急襲した。 盛時らの急襲によって範満はあえなく討取られ、龍王丸が駿府に迎えられた。 念願の駿府入りを果たした龍王丸は七代目当主今川氏親として正式に家督を継いだ。いうまでもなく勲功第一は盛時である。 盛時は富士下方十二郷を拝領して興国寺城に移ることになり、石脇城を去った。 石脇城は範満討伐にあたって盛時こと早雲が甲冑に身を固め、三つ鱗の軍旗を高らかに揚げた記念すべき城であったといえよう。 |
▲城址最南端の曲輪で外曲輪または城山八幡社のあるためか八幡曲輪とも呼ばれている。 |
▲本丸に相当する一ノ曲輪跡。現在は大日堂が建っている。 |
▲ 城址南側入口に立つ「石脇城跡」の標柱。 | ▲ 外曲輪の八幡社裏手に見られる土塁状の地形。市の説明では一ノ曲輪跡に土塁の痕跡が認められるとあるが外曲輪にもその痕跡があるとは言っていないのでこれは後世の単なる盛土なのであろうか。 |
▲ 本丸に相当する一ノ曲輪跡。 |