(かしおざかこせんじょう)
山梨県甲州市勝沼町勝沼
▲ 甲州街道、現在の国道20号線沿いの古戦場跡に建つ「近藤勇之像」。
近藤はこの辺りに大砲2門を勝沼方面に向けて据え、陣を構えた。
甲陽鎮撫隊、消ゆ
慶応四年(1868)三月一日、江戸を進発した近藤勇以下百五十余人の甲陽鎮撫隊は途中大休止をしながら甲州街道を西に向かった。日野では佐藤彦五郎が三十人ほどを集めて春日隊と称し、鎮撫隊に加わったのでその兵力は二百人近くになった。 甲陽鎮撫隊の目的は甲州に進み、甲府城の幕臣らを説いて徳川慶喜を迎え、しかる後に官軍と決戦を交えるというものであった。 三日、八王子に入ったところで官軍が信州に進軍しているとの情報がもたらされた。悠長に行軍している場合ではなくなった。官軍に先を越されては水の泡である。近藤勇は進軍の速度を上げた。 五日、雪の笹子峠を越えた鎮撫隊は勝沼宿(甲州市勝沼町)に入った。峠越えは難行軍で落伍者が相次ぎ、兵員は六、七十人に減っていた。これではと土方歳三は兵募集のために江戸へ戻った。 この日、板垣退助の東山道軍千人が甲府城に無血入城を果たしていたのである。これを知った近藤は、 「鎮撫隊の進軍があと一日速ければ」 と歯噛みしたが後の祭りであった。 六日未明、近藤は歌田(山梨市)まで隊を進めたが、すでに官軍がその近くまで進駐して来ていたために再び勝沼に引き返した。勝沼では多くの人々が集まって近藤らを迎えてくれたが、それは戦争見物の野次馬であった。 近藤は落胆しつつも官軍との一戦に備えて陣を構える場所を探さねばならなかった。そこで近藤は勝沼には僅かの兵を置いただけで柏尾坂まで後退し、そこに陣を構えることにした。 深沢川の橋を渡った所に大善寺境内の東境を示す鳥居がある(終戦後まで建っていた)。近藤はまず渡ってきた橋を落とし、この鳥居の前に江戸から持ってきた大砲二門を据えて官軍の迫るのを待った。ここの南側は日川の崖である。陣地とするに格好の場所と思えた。 「ここで二、三日踏ん張れば歳三が援軍を率いて来る」 近藤はそう云って皆を励ました。 昼過ぎ、谷干城の率いる土佐藩主力の約千の官軍が勝沼宿を突破して深沢川の対岸に現れた。同時に対岸に潜んでいた隊士が民家に放火して退き、その黒煙が官軍を覆った。 直ちに鎮撫隊は煙に巻かれてたじろぐ官軍兵士に向けて発砲した。戦闘開始である。 官軍の指揮官谷干城は地元勝沼の猟師十人ほどに兵五十人を付けて日川を渡らせ、柏尾坂に相対する岩崎山に向かわせた。 ここで風向きが変わり、放火した民家の煙が今度は鎮撫隊を覆い始めた。岩崎山に進出した官軍もここぞとばかりに撃ちかけてきた。近藤は煙の合間を見て大砲を撃たせたが、弾は炸裂せずにただ転がるだけであった。もともと大砲に関しては素人ばかりで、甲府城に持ち込めば扱える者がいるだろう、ということで持ってきたものなのである。 攻防は二時間ほど続いたが、これではいくさににならずと見た近藤は全隊士に退却を命じた。 隊士の池田七之介は退却を拒み、一隊を率いて岩崎山の官軍に向かって斬り込んだが、これが甲陽鎮撫隊の最後の戦闘となった。 やがて官軍諸隊は総攻撃に転じ、各方向から柏尾坂の鎮撫隊陣地に攻め入ったがすでに近藤らは退却した後だったのである。 後日、江戸に戻った近藤勇が再び甲陽鎮撫隊を組織することはなかった。 甲陽鎮撫隊の戦死者は池田七三郎他八名、負傷者三十余名と伝えられている。 |
▲甲陽鎮撫隊は深沢川に架かる橋を落として柏尾坂に陣を構えた。これは深沢川に架かる現在の橋(国道20号線)である。 |
▲古戦場碑文。 |
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訪問年月日 | 2007年3月3日 |
主要参考資料 | 「物語新選組戊辰戦記」他 |