川中島古戦場 典厩寺
(かわなかじまこせんじょう)
(てんきゅうじ)

長野県長野市篠ノ井杵淵


▲ 明応九年(1500)頃の創建で合戦当時は鶴巣寺という寺であった。この合戦で
討死した武田典厩信繁はこの境内に葬られ、そこは典厩塚と呼ばれた。
元和八年(1622)、松代藩主真田信之によって松操山典厩寺と改称された。

甲軍苦戦、
       典厩、諸角討死

 永禄四年(1561)九月十日朝、川中島は尺寸先も分からぬほどの濃い霧に覆われていた。

 未明に海津城(松代城)を出陣して川中島八幡原に出た武田勢であったが、霧のために手探りのような状態で各隊が展開しようとしていた。そこへ突如、上杉勢による果敢な攻撃が始まったからたまったものではない。このままでは信玄の本陣さえもが危うい状況となってしまった。

 この危機を乗り切るために山本勘助とその一隊が真っ先に上杉勢に向かって駆け出した。これを見ていた武田典厩信繁も本陣の危機を救わんと上杉勢に向かって駆け出した。さらに、これに遅れじと諸角豊後守、小笠原若狭守、一条六郎、山県三郎兵衛らが上杉勢目がけて突撃した。

 この典厩以下の武田勢を迎え撃ったのは上杉家中でも勇猛をもって知られる柿崎和泉守率いる千余の軍勢であった。

 武田典厩以下の武田勢と柿崎隊を先陣とする上杉勢との激突は凄まじく、戦いの雄叫びは山野に轟き、山も崩れんばかりであったという。

 典厩信繁は二度三度と敵中に突き入り、今のうちに勝利の工夫をするようにと信玄のもとへ使いを走らせた。すでに討死覚悟の奮戦を続けていたのである。ただ、信玄直筆の法華経陀羅尼の書かれた母衣だけは敵手に渡したくなかった。典厩信繁はこの母衣を畳み、家来の春日源之丞に渡して云った。
「これを倅信豊に届けよ、わしの形見じゃ」
 主人の覚悟を察した源之丞は目に涙して、
「それがしも冥途のご案内を仕りとうござりまする」
 と戦場を去ることを拒んだ。
「何を云うか、汝を国に帰すは信豊が成長するまで補佐させんがためであるぞ。わが意を無にするならば勘当ぞ」
 と強いて源之丞を戦場から離れさせた。後年、信豊はこの時の母衣を着けて長篠の戦いに出陣したという。

 典厩信繁は再び敵中に駆け入り上杉勢を斬りまくった。上杉方の野尻、熊坂、関山、柏原といった武将が信繁を取り巻き、武田方の内藤修理、望月甚八郎らが信繁の馬前に駆け入って防戦する。そこへ上杉家重臣の宇佐美定行の一隊が突っ込んだ。息継ぐ間もなく信繁の奮闘は続いた。

 さすがの信繁といえども疲労から動きが鈍くなるのは止むを得ない。この時、宇佐美の郎党石動藤助の鉄砲弾が信繁に当った。宇佐美定行はすかさず槍で信繁の横っ腹を突いた。敵の大将を鉄砲で討取ったとあっては畏れありと槍を繰り出したのだという。

 落馬した信繁の死骸は千曲川に流されたが、宇佐美家臣の梅津宗三が引き上げて首を取ろうとした。そこへ主人の首を渡してなるものかと信繁家中の横田主水、樋口三郎兵衛、橋爪出羽の三人が折り重なって梅津宗三を討取り、首を渡さずに済んだという。信繁の亡骸はその地にあった鶴巣寺の境内に葬られた。享年三十七歳であった。

 後にこの寺は典厩寺と改められて現在に至っている。

 信繁とともに上杉勢に突入して奮戦していた諸角豊後守昌清の耳に、
「典厩さま、御討死っ」
 と遠くに聞こえた。諸角豊後守は信繁の幼少期に傳役をつとめた老将である。
「なんと、はやくも御最期とは、お痛わし。急ぎ、我もお供仕らん」
 諸角豊後守は流れ落ちる涙もそのままに手当たりしだいに敵を斬り倒して駆け回った。上杉方からは新発田尾張守、新津丹波守、松川大隈守らが諸角豊後守目がけて突っ込んできたが、その戦いの凄まじさに押されてたじろいでいた。

 とはいえ諸角は齢八十を越えた老武者である。太刀を振るう腕の力にも限界があった。ふと一息ついたその隙に新発田尾張守の郎党松村新右衛門の繰り出した槍で馬から突き落とされ、首を渡してしまった。これに気付いた諸角家中の石黒五郎兵衛、山寺藤右衛門、広瀬郷右衛門、曲渕庄左衛門らが槍先揃えて松村を突き倒し、諸角の首を取り戻した。

 現在、諸角討死の地には生垣に囲まれた豊後守の墓が建てられている。


典厩寺内の「武田典厩信繁公の墓」。元和八年(1622)、松代藩主真田信之により、自然石をもって建てられた墓碑。碑の左横に並ぶ五輪塔は、右が典厩信繁、左が真田幸村(信繁)の供養塔である。

▲典厩寺境内の「首清めの井戸」。敵手から奪い返した典厩信繁の首を洗い清めたと伝わる井戸。

万延元年(1860)、川中島の合戦三百年を期し、戦死者六千余人の冥福を祈って松代藩八代藩主真田幸貫の発願により建立された閻魔堂には、大きさでは日本一といわれる閻魔大王の像が座している。

典厩寺境内の「武田上杉両雄合戦之碑」。八幡原史跡公園の信玄・謙信一騎打ちの像はこの石碑に刻まれた絵をもとにしているという。

典厩寺の北北西約2.5km(長野市稲里町下氷鉋塔之腰)には信繁の後を追うようにして討死を遂げた諸角豊後守昌清の墓がある。

----備考----
訪問年月日 2007年11月
主要参考資料 「甲越信戦録」他

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