桜洞城
(さくらぼらじょう)

市指定史跡

                   岐阜県下呂市萩原町萩原      


▲ 桜洞城は飛騨の大半を支配した三木氏の居城であったが、
現在は土塁の一部と崩れた石塁跡が見られるのみである。

飛騨の王者、
     三木氏の古城

 飛騨国の守護は近江を本国とする京極氏であった。ここ桜洞城を築いた三木(みつき)氏は京極氏の代官として近江から飛騨に移ったことに始まる。

 飛騨に移った三木氏の初代は正頼で、益田郡の竹原郷(下呂市宮地)に居を構えたようだ。時期は応永十八年(1411)の応永飛騨の乱の直後のことと見られている。

 その後、京極氏の力は衰退して三木氏と同様に飛騨各地に移住した代官らは土豪化して互いに覇を競い争った。三木氏二代久頼は寛正(1460-66)の頃にここ萩原の白井氏を滅ぼして益田郡(飛騨南部)全域を支配下に置いた。そして三代重頼が萩原に移って桜洞(上村)を本拠とした。

 桜洞城が城館として本格的に整備されたのは四代直頼の時で、永正(1504-21)の頃であったとされる。直頼は阿多野郷甲城(高山市朝日町)の東相模守やその他黒川氏を降して飛騨中部大野郡への進出を開始した。

 直頼の活躍によって三木氏の勢威は振るい、北部江馬氏とも交流を持つなどして、まさに飛騨に三木氏ありといった状況を築き上げた。勢力拡大に伴う残虐非道な伝承は直頼には無いらしく、信仰に篤く、情誼に厚い武将であったようだ。

 天文二十三年(1554)直頼、没。直頼に嗣子無く、弟良頼が五代目を継いだ。良頼は地位や名誉に対する執着が強かったようで、弘治四年(1558)に飛騨守に任ぜられ、翌年には子の自綱が国司となり、永禄五年(1562)からは旧国司家である姉小路姓を称して参議姉小路中納言と名乗った。他方、権威を飾るばかりではなく、版図の拡大にも抜かりはなかった。永禄元年(1558)には自綱(よりつな)に命じて天神山城(高山城)の高山外記を討ち、高山盆地への進出を果たした。高山城には良頼の弟久綱が入った。

 永禄七年(1564)、信濃を併呑した武田氏が飛騨に進攻、良頼はこれに服している。

 元亀三年(1572)、良頼没して自綱が六代目となった。この翌年、武田信玄が三河の戦陣で没した。織田信長と結んだ三木氏は武田方であった北飛騨の江馬氏と飛騨支配をめぐって抗争を激化してゆく。

 天正七年(1579)、自綱は高山城の西約3kmの松倉山に築いた新城(松倉城)に移り、桜洞城は嫡男信綱が城主となった。しかしながら同年、信綱は謀反の疑いをかけられ、父自綱から松倉城へ呼び出されて殺されてしまった。

 その後の城主は不明とされているが、松倉城を夏城とし、桜洞城を冬城としたと言われ、自綱が両城を往来していたのかも知れない。

 天正十三年(1585)、金森長近(越前大野城主)の軍勢によって攻められて落城、翌年には廃城となったという。

破壊された石塁跡。石材が無残に散乱している

▲土塁と堀の跡であるが、破壊が著しく、城跡としての全貌を推し量ることは不可能と思われる。
 ▲ 城址の北側は桜谷川による谷間となって天然の要害ぶりを示している。
▲ 桜谷公園に設けられた登城口。

▲ 登城口から登りきると広い平地となっており、本丸付近は畑地となっている。右前方の森に城址標柱が立っている。

▲ 城址に残る石塁跡。

▲ 土塁と堀の跡。

▲森の中に立つ標柱。
----備考----
訪問年月日 2010年9月4日
主要参考資料 「日本城郭大系」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ