伝・源義朝公最期の地
(でん・みなもとのよしともこうさいごのち)

町指定史跡

               愛知県知多郡美浜町大字野間      


▲ 平治の乱で敗軍の将となった源義朝はここ野間の地に落ち着いたが、
長田父子の裏切りによって湯殿であえない最期を遂げてしまった。
現在、その湯殿跡と伝わる地に義朝公の像が建てられている。

義朝、ただ今討たるるぞ

 平治元年(1159)十二月二十七日、都で戦乱が勃発した。源義朝らの蹶起は首尾よく運んだかに見えたが、平清盛率いる平氏の大軍によって寡兵の源氏の軍勢は鴨川の河原に追い詰められ、やがて敗走を余儀なくされた。

 いわゆる平治の乱である。乱の顛末については「平治物語」に詳しい。無論、その細部に至るまでが史実であるとするのは誤りかもしれないが、当時の様子を生々しく私たちの脳裏に再現させてくれる点においては有難いものである。

 ここ野間は義朝が最期を遂げた地として、それにまつわる遺跡がいくつか伝えられている所である。「平治物語」などをもとに義朝最期の様子を追ってみたい。

 鴨川の河原で討死覚悟の突撃を試みようとした義朝は郎党鎌田兵衛政清(政家)の諌止によって思いとどまり、再挙を図るべく関東を目指して都を脱した。瀬田辺りからは目立たぬようにと付き従う郎党二十余人とも別れ、主従八騎となって美濃国青墓に辿り着いた。この間に頼朝(十三歳)が雪中逃避の一行からはぐれたことはよく知られている。

 ここで義朝は長男義平を再挙を期して飛騨へ走らせ、重傷の二男朝長(十六歳)を手にかけた。そして恩賞目当てに押し寄せる村の者どもを佐渡重成が義朝の身代わりとなって奮戦自刃する間に青墓を発ち、養老郡鷲巣に着いた。主従わずかに四騎となっていた。

 ここから鷲栖玄光法師の協力で杭瀬川を下った。荷に見せかけた柴木を積んだ小舟で玄光が掉さし操ったという。川の関では義朝らは柴木の中に隠れて番人の探索をくぐり抜けたという。

 川から海に出た舟は知多郡内海へ着いた。一行は義朝と鎌田政清、平賀四郎義宣、渋谷金王丸、鷲栖玄光の五人であった。ここには源氏相伝の家人であり、鎌田政清の舅でもある長田庄司忠致の屋敷があった。義朝もここならばひとまず安全と心を許したものと思われる。

 ところが、
「ここで東国に逃したとて目的地に着く前に誰かに討たれるであろう。人の手柄にするくらいならば、ここで討って平家に届け、子孫繁昌のため、義朝の所領もしくは当国(尾張国)なりとも給わりたいもの」
 と長田忠致は子景致と相談して義朝を討取ることにしたのである。

 年が明けて正月三日、長田忠致、景致父子は郎党を秘かに集めて計画を実行に移した。義朝を湯屋へ案内し、鎌田政清には忠致が酒を進めた。平賀義宣と玄光法師にも外侍で酒を飲ませた。

 湯屋では金王丸が義朝の背を流していたが、浴衣が用意されてなかったために彼は湯屋の外へ出た。この隙に長田家の郎党橘七五郎、弥七兵衛、濱田三郎の三人が湯屋に走り入り、裸の義朝に七五郎が組み付き、左右から弥七と濱田が脇下を突き刺した。
「政清は候はぬか。金王丸はなきか。義朝ただ今うたるるぞ」(平治物語)
 享年三十八歳。これが義朝最期の言葉であった。

 異変に気付いた金王丸は湯屋へ駆け戻り、義朝を討った三人をその場に斬り伏せた。

 一方、舅と酒を酌み交わしていた鎌田政清もこの変事に気付いて走り出ようとしたところ、妻戸の陰に待ち構えていた景致によって討取られてしまった。夫を騙し討ちされた政清の妻、つまり長田忠致の娘も夫の亡骸の前で自害した。

 金王、平賀、玄光の三人は屋敷内で長田の郎党らと乱戦、七八人を斬り伏せて馬を奪って屋敷を脱した。

 玄光は鷲巣に戻り、金王丸は都の常盤御前に義朝の最期を報じた。金王丸はこの後剃髪して義朝の菩提を弔い、諸国修行の旅に出たという。平賀義宣も行方をくらましていたが頼朝挙兵の後、その陣中に加わったという。

 さて、義朝と政清の首を持って上洛した長田父子である。平家は忠致を壱岐守、景致を左衛門尉に任じて賞した。しかしながら父子にとっては不服であった。壱岐一国を得たとはいえ、最果ての地では嬉しくもない。再度、義朝の所領全部か尾張一国が欲しいと願い出た。

 これにはさすがの平家も怒った。
「相伝の主と婿を殺しておいて何を言うか。狼藉なり」
 と壱岐守と左衛門尉の官職を取り上げ、さらに六条河原に引出して二十の指を切り、首を鋸斬りにすると脅した。

 長田父子は慌てて国に逃げ戻ったという。

 年月を経て、長田父子は平家追討の源頼朝のもとに重刑覚悟で出頭した。頼朝はその態度が神妙であるとして天下統一の後には美濃・尾張を父子に与えると約束した。父子は喜び勇んで平家との合戦に加わり、抜群の手柄を上げたという。

 その後、平家を滅ぼした頼朝は父義朝の菩提のために野間に廟所と七堂伽藍を建立した。

 建久元年(1190)十月、頼朝は上洛の際に野間に立寄り、盛大に会式(法要)を営んだ。式後、頼朝は長田父子を捕え、
「約束の身の終わり(美濃・尾張)を宛行うべし」
 と、廟前で板張付けにして処刑したという。

「源義朝公御廟」。義朝が湯殿で襲われた際に「われに小太刀の一本なりともあれば」と無念の言葉を残して斃れたと言われ、墓の周囲には参拝者によって小太刀が沢山積まれている

▲織田三郎信孝卿之墳墓。賤ヶ岳合戦時、柴田勝家に呼応して岐阜城に挙兵した信孝は戦後この地に逃れて自害させられた。
 ▲ 大御堂寺(野間大坊)本堂。境内には頼朝建立の門や義朝の墓などがあり、寺の周辺にも義朝にまつわる史跡が点在している。
▲ 建長二年(1250)、五代将軍藤原頼嗣寄進の鐘楼。

▲ 源頼朝が建久元年(1190)に建立した大門。

▲ 「血池」。源義朝の首を洗ったと伝えられる池。

▲ 源義朝の墓。

▲ 鎌田政家(政清)と妻の墓。源義朝の墓の傍にある。

▲ 「磔の松」。建久元年(1190)、平家を滅ぼした源頼朝が上洛の途次、野間に立寄り父義朝の法要を営んだ。法要が終わると長田父子を捕えてこの松に磔に処したと伝えられている。以来この老松は墓標代わりとなっているという。

▲ 野間大坊の東約250mの所に長田屋敷跡がある。遺構はなく看板のみである。

▲ 「伝・源義朝公最期の地」の関連史跡である「乱橋跡」の碑。湯殿で義朝が謀殺された時、駆け付けようとする渋谷金王丸や鷲栖玄光らと長田の家臣がこの橋の近くで乱戦したため後に乱橋と呼ばれたという。

▲ 名鉄野間駅の東約400mの所に法山寺がある。境内には義朝慰霊の鐘であろうか、鐘の前の板には「慰源義朝公霊」と書かれている。

▲ 「伝・源義朝公最期の地」として史跡に指定された湯殿跡には「源義朝公横死の湯殿水跡」の碑と義朝公の像が建てられている(法山寺内)。

▲ 湯殿跡。かつては温泉が湧いていたと言うが、現在は枯れているようだ。
----備考----
訪問年月日 2010年11月6日
主要参考資料 「平治物語」他

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