国指定史跡、世界遺産
広島県広島市中区大手町
▲ 元安川と原爆ドーム。
原爆の惨禍を
後世に伝えん
昭和20年(1945)8月6日月曜日午前7時9分、中国軍管区司令部はB-29爆撃機1機が広島上空に飛来したため警戒警報を発令、広島市内にこの日最初のサイレンが鳴り渡った。 この日の広島は朝から雲ひとつなく太陽がぎらぎらと輝いていた。市民の多くは簡素な朝食を済ませ出勤の時間帯に入ろうとしていた。警戒警報は連日のことで特に危険を感じる人は少なかったようである。 このときのB-29は広島上空の気象偵察を目的とした機で、爆撃条件良しの報告をすると広島上空から去って行った。 7時31分、警報解除。人々はそれぞれの交通手段で職場へ向かった。婦人や学生たちも勤労奉仕にと各所へ出掛ける姿が目立ち、市内はちょっとしたラッシュアワーをむかえていた。 ここ廣島懸産業奨励館(原爆ドーム)には内務省中国四国土木出張所、廣島懸地方木材梶A日本木材栢A島支社、廣島船舶木材鰍ネどの事務所が入っており、約三十人ほどの職員が勤務していた。 8時6分、広島市東方の松永監視哨が2機のB-29を発見、8時13分警戒警報が発令されたが放送されるには至らなかった。 このB-29はテニアン島を発進した米戦略空軍第509混成飛行隊所属の原爆搭載機「エノラ・ゲイ」号と随伴の観測機であった。「エノラ・ゲイ」号は広島東方の西条上空1万bから進入、8時12分爆撃点に入った。爆撃手が目標の元安橋を照準器にとらえた。8時15分、ウラニウム爆弾「リトルボーイ」が爆弾倉から投下された。「エノラ・ゲイ」号は右急旋回で離脱に移った。随伴の観測機は観測計器を積んだ三個の落下傘を投下し、左旋回で離脱した。 投下40秒後、目標上空580bで爆弾は強烈な閃光を発して爆発した。 爆心から160b、ほぼ直下といってよい産業奨励館の職員は全員即死。爆心から2,500b以内の建造物は倒壊、2,000b以内は炎上焼失、死者推定13万人、負傷者8万人と伝えられている。全ては一瞬の閃光、そして熱波、爆風によって市全域が壊滅したのである。 被爆の犠牲者は戦後六十年以上を経た今でも増え続けている。平成18年(2006)8月6日現在における原爆死没者名簿の記載数は247,787人となっている。 現在、広島の街はビルが建ち並び、人々は笑顔で行き交っている。戦争が遠い昔の出来事となり、我々の生活の中から消え去ろうとしている。しかし、この原爆ドームの前に立つとき、戦争とは、平和とは何なのか、誰しもが考えざるをえない気持ちになるのではないだろうか。 原爆ドームは日本人のみならず世界共通の平和のための人類の遺産として後世に伝えられるべき史跡なのである。 |
▲ ドーム直下の瓦礫。 |
▲ 「原爆ドーム」名称の由来となったドーム部分。 |
▲ 原爆死没者慰霊碑と平和の灯、原 爆ドームが直線上に連なって見える。 |
▲ 世界遺産に登録されたことを記念する石碑。 |
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訪問年月日 | 2006年8月16日 |
主要参考資料 | 「八月十五日の空」他 |